Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

今に在るとイメージのお話

はじめに

はいどうもー!
おはようございます。
タクさんです。

みなさんは、ラーメン好きですか?

僕が子供の頃ってねぇ。
もう40年ほど前になりますが、
そのころって、いうほどラーメンの種類ってなかったような気がするんですよね〜。

近場で気軽に食べられるラーメンって、
醤油、しお、味噌、くらいじゃなかったかな〜。
って気がします。

そもそも、しかもラーメンを食べるなら街の小さな中華料理屋って感じで、今みたいにラーメン専門店がどこにでもあるって感じではなかったんですよね〜。

今は、色んな種類がありますね。

僕が好きなラーメンは、やっぱトンコツかなぁ〜。
天一(天下一品)も好きだな〜。
天一は、多分に思い出補正も入ってるんですけどね。
今食べれば、他に美味しいラーメンはいくらでもある!とは思うんですが、
それでもやっぱり天一がいい!ってなるんですよね〜。

 

ラーメンの味は食べているときしか存在しない。

さて、そんなラーメンなんですがね。
やっぱりその味って記憶で思い出したりすることはできるでしょうけど、
いくらイメージで頑張って思い出してみたとしても、
どうあがいても、食べているときとは比べ物にならないですよね。

つまり、自分は、あのラーメンの味を知っている!
と思いこんでいたとしても、食べているとき以外は、その味をほとんど再現できていないんです。

これはねぇ。
あらゆる体験にも言えるんですけど、その体験って、その時じゃないと味わえないし、体験が終わったなら、もうそれって無いんですよね〜。

イメージは「今」を再現できない

つまりね。
どんな体験を持っているとしても、それはどう頑張っても「今」再現することはできないんです。
思い出して感じてみたとしても、それはもう全然違うものなんです。

リアルなものは、もう「今」のこの「ダイレクトさ」にしかないんですよね。

リアルな今と、イメージで再現したものは、一見似ているように感じたとしても、実際は似ても似つかぬぜんぜん違うものなんです。

イメージはあくまでもイメージ

ですが僕らは、ついついこのイメージの方に重点を置きたがるきらいがあるんです。
そして、このイメージをリアルと錯覚しがちなんです。

そして、このイメージを優先している間は、「今」のダイレクトさが置いてけぼりになってるんです。

そんな感じで「今」を見失っているというわけなんです。

「今」に在るにはどうしたら良いのかー?なんて思ったりすることもあるかもしれませんが、そもそも僕らは「今」にしか在れないんですよね。

ただ、その「今」を思考はどうでもいいことだと判断しているだけなんです。

思考にとって「今」が退屈なのは、もうほとんどのことが整理済みということにしているからなんです。

もし、経験したことのない「今」が現れてくると思考も一気に「今」に戻ってくるんですけどね〜。

からくりを悟る

ただ、イメージが実際とは全然違うのと同様に、すでに整理されていて、なんてことはないとされている「今」も改めて感じてみると、それはイメージしていたものとは全く違うリアルなダイレクトさなんですよね〜。

思考は整理済みになっていて、そこに驚異なし!としたものをぞんざいに扱いますが、本来は全然違うんです。

思考はなんでも取っておこうとするし、取っておいたものを持っていると錯覚しているけど、実際にはなんにも持っていないことも、この「今」のダイレクトさを改めて感じることで知るんです。

思考とイメージのからくりを知るって感じですかね〜。
「私」も思考の中にしかいない住人なので、私が知るということではないんですけどね。

ですので、この知るというのは思考が取っておくという感じの知るとはちょっとニュアンスがちがうので、悟ると表現されていたりするわけなんです。

 

 

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