Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

一瞥体験というストーリー

はじめに

はいどうも!
タクさんです。
おはようございます。

みなさんはあやとりが上手ですか?
僕は、山しか作れません。

そして、この山に未だに納得しておりません。

だってねぇ。
あやとりの「山」って全然「山」に見えませんもんねぇ。

なんであれば、「山」なんだろうか?

まあね。
みなさん、きっと今までにも色んな体験があって、
そんな体験を今でも持っているかと思います。

でもね。
実は体験って持つことができないとするとどうでしょう??

というわけで、今日は体験をテーマに書いてみたいと思います。

 

体験というストーリーはイメージの中だけにしか無い

僕らってね。
今までに色んな体験をして、その経験を今でも持っていて、
何かに活かせている。
ってね。

なんかそんなふうに思っちゃうじゃないですか。

でもねー。
じゃあその持ってる経験をみせて?と言われると見せられませんよねぇ。

例えば、アフリカにいったことがある!
という体験があるとするなら、
その体験を見せてといわれても、写真を見せながら、思い出話をするくらいですもんね〜。

でもこれって、ただストーリーを今語っているだけであって、そこに生の感覚はいっさいないですよね。
つまりそこに実在は一切ないんです。

これね。
一瞥体験も一緒なんですよね。

「私は一瞥体験をしたぞ!だから、気づけたんだ!」

ってね。
そう思っちゃうパターンってよくあると思うんですよ。
でもこれって、ただ単に、そうやって自我ちゃんを納得させているだけだったりするんです。

その体験は、無いものであって、あるとと感じられるものは、ただ単にイメージで作られたストーリーに過ぎないんです。

一瞥体験をもって、何かに気づいたと思っているのなら、それもまた一つの解釈をもって自我ちゃんを納得させただけだったりするんです。

一瞥体験とあやとり体験

つまり、一瞥体験も、あやとりをした体験も、ラーメンを食べた体験も、海外旅行をした体験も、これら全ては、あるように見える幻想なんです。

実在は、ダイレクトな今だけであって、それに気づく誰かなんていないんです。

もし、何かをきっかけにわかったんだ!と感じたとしたら、それはもう、そういうストーリーを脳内で語っているだけなんです。
もちろん、思考のストーリーの中では完璧なストーリーとして見えちゃいますけどね。

つい僕らは、
何かしらの体験をしたなら、その体験でもって何かがわかるって思っちゃうじゃないですか。
この立て付けは、あくまでも自我ちゃんの中だけの立て付けなんです。

自我ちゃんはストーリーで納得したがるので、そのように納得させているだけなんですよね〜。

ま、なので、体験となった時点でもうストーリーでしか無い。ということなんです。

悟りの体験

なので、私には一瞥の体験がある。悟りの体験がある。と思っていたとしても、
それって、別にその体験に価値があるわけではないんです。
またもしこの体験によって、何かがわかったと感じたのだとすれば、その「わかった!」で自我ちゃんを納得させているだけかもしれないんですよねー。

自我ちゃんは、納得すると、一旦は探求をやめますのでね。
一見、探求が終わったかのように感じることもあるんですけどね。

でもそれをもって、「体験によって探求が終わった」というストーリーを頭の中で囁いているだけかもしれないんです。

ま、このあたりは、非常に微妙だったりするんですけどね。

もし「体験によって探求が終わった」が自分の中にあるなーと感じているのなら、そんな「悟りの体験」も、スコーンとお気軽に捨てちゃってみてください。

するときっと、わかるもわからないもない、なんでも無いという静寂がまた改めて新しさを持って感じられるかもしれませんよん♪

 

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