Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分がしっくりこないのは当たり前なんです

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

このブログで書かれているような話はね。
自分が何者かになる話じゃないんですよ〜。
ってなことは、何度か書いておるんですけどね。

ま、そりゃー当たり前の話でして、
そもそも僕らは何者でもないじゃないですか。
最初は何者でもないところから始まってるわけですからね。

そして、そのうち僕らは何者かになってきたって思ってるわけなんです。

そう思ってるから、もっとより良い自分っていうのを求めているわけですね。

ま、それは別に良いんですけど、
あくまでもこれって、連想ゲームといいますか、
演じている演出みたいなものですのでね。

楽しく演じていればそれで良いんです。

ですが僕らは、演じていることをまるで忘れて、
その何かしらの者を自分だと本気で信じ出したわけです。

昔、ドラマの「おしん」が実際に実在していると信じていたじいちゃんばあちゃんが沢山いて、
役を演じていた女優さんが、すごく同情されて、
「頑張ったねぇ、えらかったねぇ」って声をかけられまくった。

みたいな話がありますがね。

ま、それと同じような感じでね。

僕らも、いろんな何者かを演じているわけですが、
自分で演じていながら、それが実在しているかのように感じちゃってるわけなんです。

 

しっくりこない自分

でもね。
実際には演じているに過ぎないので、いつしかしっくりこないような感覚になってきたりするんですよね。

これは本当の自分ではない。自分らしさはもっと違うところにあるはずだ!

ってな感じでね。
ま、そりゃー当たり前です。
だって、その自分は演じられた自分なんですもん。
しっくりこないのは当たり前なんです。

でも、他の演じ方を探したところで、結局一緒でね〜。
どう演じたところで、やっぱり本来の自分ではないってことになるんですよね。

ペルソナ

だから、自分は何者なのかを探求しても、答えは見つからないんです。
逆に自分は何者ではないのか?っていうのを確かめていくほうが良いんですよね。

自分が演じている何者かを脱ぎ捨てていくんです。

この何者っていうのは、言い換えるとペルソナなんです。
ペルソナとはすなわち仮面です。

パーソナリティとペルソナは同じ意味なんですが、このいずれもが、
仮面なんですよね。

古代ギリシアでは、仮面をつけて演じる風習があったんですよ。
この仮面のことをペルソナとよんだのが始まりなんです。

この仮面を脱ぎ捨てていくんです。

空っぽであって、全てがある

僕らが演じている仮面は実に沢山あります。
これを脱ぎ捨てていくと、その奥に本来の自分がいる。

って思うじゃないですか。

でもね。
じつはちょっと違うんです。

脱ぎ捨てていくと、その奥にあるのは、
ただの空っぽなんですよね。

そう僕らの正体は空っぽだったんです。

でもこの空っぽにただとどまっていると、

驚くことに、ココに全てのポテンシャルがあるということに気づくんです。

まさに空(くう)ですね。

有るも無いもないんです。

まさしく全部なんですね〜。
だから、本来の僕らは何者でもないものなんです。

これこそ何にも縛られていない自分であり、
限定されていない全てなんですね〜。

僕らは自分で自分を幻想の縄で縛っていたんです。

 

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!