Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「信じる・信じない」の一切を取り払って後に残るもの

はじめに

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

「あーなーたーはー、カーミーをー信じますか〜?」

なーんてね。
そんな宣教師のセリフってのがあったりしますが、
でもねぇ。
神って言われてもねぇ。

この神様の定義っていうのもまたものすごく沢山ありまして、
人の形をした神なのか?
それとも、得も言われぬ自然の摂理を神と呼ぶのか?
人智の及ばないものを神と呼ぶのか?

ってのも色々ですからね〜。

ま、なので信じるか信じないかは定義にもよりますよね。

つまり、僕らが信じているものっていうのは、
何かしらの定義がそこにあって、その定義が信じるに値すると考えられるものだと言えるのかもしれません。

信じるに値するというのは、例えば経験的なものかもしれませんし、信じている人の多さかもしれません。

「周りの人がみんなそう言っているのなら、きっとそうなのだろうな〜。」
ってな感じでね〜。

きっと神というものも、そんな感じで信じられたのかもしれません。

そう言えば、聖徳太子の時代の日本も、国民をまとめるために仏教を利用したってなことも言われていますもんね。

まあね。
信じるに値すると感じる材料は、必ずしも正確とは言えないものも多かったりするわけです。

なので、むしろ、自分が信じているものに対してはちょっと疑ってみるのも良いかもしれませんね〜。

 

信じるに値する材料

悟りや非二元のお話を聞いていてもいろいろと疑問点が出てきたりしますよね。
こういった疑問点も、もしかしたら、信じるに値する材料を手に入れようとしているパターンもあるかもしれません。

そして、どうやったら納得できるのか?
っていうね。
そんな着地点を探そうとしちゃうんです。

まあでもね。
別にこれって宗教やスピ系の話をしているわけじゃないですからね〜。
そもそも、この話は「信じる・信じない」の話じゃないんです。

思考の材料

信じているものというのは、ある種、思考の材料の一つなんです。
思考ちゃんが紡ぐストーリーは、あらゆる材料の組み合わせで成り立っているわけです。

ある日、山に芝刈りにでかけました。

なんていうフレーズにも、山や芝、日にちというラベル。ある日出かけたという過去の概念。
といろんな材料によって出来ているわけです。

この、ありとあらゆる材料って、思考でストーリーを作るためにでっち上げられたイメージだよねぇ。
というお話なんです。

思考のストーリーの中だけで真実っぽく演出されているだけだよね。
ということなんです。

信じているものを剥がしていく

ありとあらゆる信じているもの。
これらを丁寧に剥がしていくと、そこに残るもの。

それが、まったきダイレクトな「それ」なわけです。

ただし、あらゆるラベルが取り除かれているため、それは分割できず名前もありません。
何かしらの特別な現象でもなければ状態でもありません。

だから常にココにあるわけでして、分割されていないので全体なんです。

でもこうやって言葉で表現しているその言葉の中に「それ」があるわけでもなく、
あらゆる思考による定義を取っ払った時に、もともとココにあったものなんです。

ま、そんなわけですのでね。
信じようとするのではなく、むしろ信じているものを剥がしてやれば良いんです。

でも、信じるを信じないに変換するということじゃないですよ。
「信じない」もまた一つの定義に過ぎません。
これもまた、思考の材料の一つに過ぎないんです。

 

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