Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あるがままへの反発と苦悩

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

華厳の滝という名所があるじゃないですか。
たしか栃木県の日光にあるんだったかな?

僕は関西に住んでいる頃から日光には一回行ってみたいとは思ってたんですが、
関東に住んでもはや20年以上経ちますが、いまだに日光には行けてないんですけどね。

ま、そんな華厳の滝。
写真で見ると壮観ですよね。

でもあの滝って、実はダムの放流って知ってました??

つまりあの滝は、しっかりとコンピュータ管理されているんです。
なので、ちょうどよい水量で流れるようになっているんですよね。

ちなみに、夜間は放流を止めているらしいです。

さてさて、
そんな滝ですが、
もちろん滝は上から下に向かって流れています。
当たり前ですよね。

でももし、思考がどうしても下から上に向かって流れるべきだ!
と考えるなら、その思考の思いは、思い通りに行かないことになりますよね。

もし、下から上に流れないと自分の生命に危険を感じると思い込んでいるのなら、
余計にこの思いは強くなります。

でも、強ければ強いほど、その思いがかなわないことに僕らは苦悩するわけです。

つまり、何が言いたいのか?といいますと、
僕らの苦悩というのは、当たり前に逆らうことで起こる。
ということですね。

当たり前とは、あるがままのことです。
あるがままに逆らうことで、僕らは苦悩をしているわけです。

 

あるがままが最高

そもそもね。
あるがままで、もうすでに完璧なんですよね。
そこに、文句のつけようがないんです。

今日が晴れなら、もう晴れで完璧であり、
雨なら雨で、もう完璧なんです。

ここに文句のつけようがないんですよね。

それが自然であり、それがあるがままなんです。

ですが、思考の解釈っていかようにも作れるじゃないですか。
だって解釈って部材が必要なわけではありませんからね。

そしてこの解釈に真実性が加わるほどに、解釈を真実とし、
目の前のあるがままが、この解釈の真実と違った場合にね。

あるべきではない事が起こっている。
と感じちゃうわけですね。

諦めろという話ではない

え?
だったら、なんでもかんでもあきらめろ?
っていう話なの??
というと、そういうことでは決してありません。
ついつい僕らは、ありとあらゆることを定義づけしてしまうクセがありますからね。
そして、定義づけには、この定義は正しいのか誤りなのか?という思いがくっついてきちゃいます。
それを含めて、解釈だよね。
という話なんです。

まずは、一旦この定義づけを置いておく。
つまりは、思考の解釈は置いておいてみようよ。
っていうことですのでね。

目の前のあるがままこそが真実だから、その解釈を書き換えろ!
っていうことでは無いんです。

ただ、解釈は解釈であると知ると、解釈に振り回されなくてもすむよ〜!
ということ。

そして、僕らの苦悩というのは、解釈に振り回されることで起こっているよ〜!

ということなんです。

ただ、苦悩は悪いものではありません。それはそれで味のあることですのでね。

あなたのまんまでもう完璧

さて、また、苦悩というのは、
自分への否定でも起こりますよね。

これもまた、言い換えると「あるがまま」への反発なんです。

この反発によって、こうあるべきではない自分。というものが生じているわけでして、
このあるべきではない自分に対して苦悩するんですもんね。

そもそも、あるがままのあなたはすでに完璧なんです。
そこに逆らうことで、そのまま反発となって帰ってきているんです。

だからこれもまた、色々と解釈は起こっているでしょうけど、
とりあえず、無条件の自分をまずは許してやったら良いんじゃない?
ということなんです。

条件を自分につけずに、無条件なの自分を許すんです。
条件というのは、これまた解釈ですのでね〜。

さて、この条件というものをさらさらーっと剥がしていくと、
自分というものもまた、一つの解釈だということが明らかになっていくんですよね〜。

 

 

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