はじめに
へーい。
どうもおはようございます。
学生の頃、
お前の髪型は彼岸花のようだな!
と言われていた天然パーマのタクさんです。
この彼岸花のようだっていうのをね。
どういう意味を持って言われていたのかはよくわからないんですが、
僕個人としてはね。
「マジ??めっちゃかっこいいやん!パンクやん!ありがとう!」
って思っておりました。
だって、彼岸花、かっこいいですよね。
ちなみに、春分の日や秋分の日あたりをお彼岸といって、
なんかあれこれとやったりしますよね。
僕は、お彼岸ということで何かの行事に参加したことはないのですが、
言葉くらいは知っています。
どうもこのお彼岸というのは、この世のものではなく、あの世のものである。
といったような解釈が主流だったりしますよねー。
そして、彼岸の対比として、此岸(しがん)というものがございまして。
この此岸というのが、迷いや悩みの多い現実世界のことなんだそうです。
この此岸と彼岸の間には有名な三途の川というものが流れていて、
ちょうどお彼岸の時期になると、この此岸と彼岸の距離が近くなる。
なんてことも言われていたりします。
なんでだろ??三途の川って水量が減ったり増えたりするんでしょうかね?
まあ、僕はあまり仏事だとか仏教のことに詳しくはないんですが、
今日は、この彼岸についてちょっと物申してみようかなーっと思います。
彼岸に物申す!
彼岸というものをググってみると、大体は今年の彼岸は何日から何日ですよー。とかそういう情報が多いんですが、仏教的には、煩悩を脱して涅槃に達した悟りの境地である。
といったような説明もちらほらと垣間見れます。
仏教では、この彼岸を目指して、煩悩を脱するための修行というものが色々とあるのかもしれませんね。
そして、この彼岸に何を物申したいのか?
と言いますとね。
別に仏事をしたりするのは勝手なのでいいですし、興味ない人はしなきゃいいって思ってるんですけどね。
いわゆる悟りという面で言いますと、なんていうか、字が悪いんじゃないの?
って思うんですよねー。
字が悪いというか、逆やん!逆!
って思うんですよ。
彼岸と此岸は逆だよね。
悟りにしても、目覚めにしても、アレにしてもコレにしても、ソレでも呼び方はなんでもいいんですが、
なんていうか、良くありがちな勘違いとして僕らは、この彼岸的な考え方をしているところにあるんじゃないか?
って思うんですよねー。
つまり、彼岸と此岸(しがん)があるとして、
此岸である迷いや悩みの現実世界というところから、
何かしらをして、どこか彼方にある彼岸に辿り着きたいと願い、
辿り着くには、どうすればいいのか?とその方法論を探究する。
っていうね。
そういう錯覚があるんじゃないのかな?って思うんですよ。
彼岸と此岸というのも、
字を見ても彼方(かなた)にある彼岸。
此処(ここ)にある此岸。
ってね。
ここにあるのが現実であり、遥か彼方の向こう岸に彼岸という悟りの境地がある。
っていうね。
そんな意味が、この字面からは読み取れるじゃないですか。
この字がねー。
違うやん!って思うんですよね。
そして、逆だと思っているんです。
ま、厳密にいうと、逆というよりは、一緒なんですけどね。
彼岸と此岸はここにある
一緒というのは、どういうことかというと、
此岸と彼岸は遮られているということではなく、大いなる彼岸の中に此岸という夢が泡のように現れては消えているだけじゃんという感じです。
空に浮かぶ雲のような感じと言ってもいいかもしれません。
どこまでも続く青空が彼岸だとすれば、そこに現れては消えていく雲が此岸ということですね。
雲と空は分かれていませんよね。
境界線もありません。
ただ、その境界線を思考のイメージの中だけで作り上げている時、
その雲は、
「あ!鳥の形になった!」
「あ、また形が変わった!」
となるだけであり、この形というのもまた、イメージの中だけで起こっている夢想なんです。
彼岸こそ「ここ」にある
彼岸とは、どこか彼方にあるものではなく、彼岸こそずっとここにあるんです。
そして、思考だけが、この彼岸の中でイメージの世界観を作っているというわけです。
思考のイメージは分離の概念を大前提に作られておりますので、そこに迷いや悩みという夢がイメージの中で展開しているよー。
ということなんです。
そして、このイメージをずっと展開させるために必要になるのが、
「こうあるべきだ!」
「こうあるべきではない!」
といったような思いや、
もっとこうしたい、ああしたいといったような欲。
つまりは、分離の概念を元に話を展開させるための材料が 必要になるというなんです。
この材料がいわゆる煩悩というわけですね。
ちなみにね。
彼岸に到達しなければならない。という思いもまた煩悩となってしまいます。
でも、遥か彼方に悟りの境地がある。なんて言われると、そこに到達しなきゃ!って思っちゃいますもんねぇ。
だから、この字面自体が、煩悩を生じさせてるじゃん♪
と感じるわけです。
煩悩は霞のようなもの
ちなみにね。
煩悩というものは、あるように見えて実体のないものです。
だから、煩悩から脱しようとするとうまくいかなくなったりするんです。
だって、煩悩から脱しようという思いは、煩悩があるということを前提として認めていることになっちゃいますもんね。
でも、ないんですよ。
あるように見えている霞みのようなものなんです。
蜃気楼なんです。
だから、煩悩から脱するというよりは、元々脱している中で、ただそれが有る「てい」にしているだけなんですよね。
では、どうしたらいいのん?
って話なんですが、そこでキーワードとなるのが、許しと受け入れなんです。
つまり、あっても良いよね〜って迎え入れてあげるんです。
そして、許されると煩悩は働きを止めてくれるんですよね。
この働きがなくなると、此岸の泡は消えてなくなります。
そして、ここに残るのは、ずっとここにあった彼岸なんです。
ずっとここにあった彼岸っていう字面は変ですけどね(笑)
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