Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

今への抵抗によるパラドックス

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はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさん。いかがお過ごしでしょうか?

このブログではあまり時事ネタは書かないのですが、
コロナの件については、ちょくちょく書いてます。
今回のコロナ騒ぎは確実に世界を変えてしまいました。
このインパクトは、戦前と戦後ぐらいのインパクトがあると思います。
ま、世界大戦は僕も経験してないので、ネット時代が来る前と後といった方がいいかもしれませんね。
それくらいのインパクトで変わると思うんです。

情報によっては、コロナ前とコロナ後では若干常識が変わってくるので、
今後、この騒ぎが治った後には、情報を検索する時の意識も変わってくると思います。
この情報はコロナ前に書かれたものなのか、それともコロナ後なのかどっちなのか?
ということを意識して情報検索をすることになってくると思うんですよねー。

まあ、それくらい常識も変わってくると思いますが、
このブログで書いている内容についての常識は全く変わりません。
このお話は世界情勢には影響されませんからねー。

そして、世界情勢に影響されないと言うこと自体が、見抜きのヒントにもなっています。

例えば、
うちのネコは今回の騒ぎにたいして、不安を感じてすらおりません。
今日、生き生きとエサあさりをしているカラスを見かけましたが、
彼らもこの騒いではおりませんからねー。

さて、今日は
「今(イマ)」をテーマに書いてみたいと思いまーっす。

 

浅いプールで溺れているようなもの

全てはすでに完璧です。
でも僕らはこの完璧の中で足掻いているんです。
それって、まさに浅いプールで溺れそうになって足掻いているのとちょっと似ているんですよねー。

落ち着けば足が付くのに、まるで足がつかない深いところで、
溺れているかのように足掻いているんです。

よくよく落ち着いて見ればねー。
あれ、全然足が付くジャン!
ってね。わかるわけなんですが、
足掻いている間はわからないんです。
なので、なんとか足掻いて何かにつかまらないと溺れてしまう!
ってねー。
思い込んじゃっているんです。

今への抵抗

もちろんねー。
足がつく場所で溺れそうになりながら足掻いているというのは、
モノのたとえなんですけどね。
では、僕らが足掻いているのは何に対して足掻いているのか?
本当は安心なのに、何に対して足掻いているのか?
といいますと、
それが「今」に対してなんです。

本当は足が付く安心できる場所なのに、
そうは思えずに溺れると思い込み足掻いている。

これは
「今」は何も問題がないのに、
その「今」が大問題だと思い込んで溺れそうになってるんですよね。
この思い込みさえなければ、安心して立っていられるんです。

悟りはやがて訪れるものではない

今はまだ、修行が足りないから悟りが得られない。
なんて思いもまた、思い込みに過ぎません。
悟りは、もうすでに、今ここに転がっているものなんです。
それが、あまりに平凡なので、僕らはここにあるとはどうしても感じられないんです。
悟りはもっと素敵なモノ。特別なモノといったねー。
そんな思い込みが、「こんな平凡なモノであるはずがない!」

っていう思い込みを生んでいるんですよね。

そして、この思い込みが、もともと持っていた平安の悟りを失わせているんです。
そして、失ったという錯覚によって、それを取り戻そうとしているんです。

元々、持っていたからこそ、失ったと言う感覚を持っているんです。

なぜ失ったかというと、失ったという思い込みがあるからなんです。
この思い込みこそ、足がつかないと言う思い込みと一緒で、
僕らはこの思い込みによって足掻いているんです。

ここが、この話の大いなるパラドックスなんですねー。

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