Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

兎にも角にも比較はやめぃ!

はじめに

はいよーっ!
おはようございます。
タクさんです。

久しぶりにカフェでこのブログを書いております。
最近は仕事もブログを書くのも家ばっかりだったのでねー。
やっぱりカフェで書くとはかどりますね。

先日は家の屋上で書いたらちょっとは良い気分になれるだろうか?
って思って試してみたんですが、
屋上ってねぇ。
なんか風が強いんですよ。
ブオーンッブオーンって風が吹くなか作業をしてると、
やってられるかーっ!
ってなってしまいまして、最近はあまり屋上に上がっておりません。

みなさんはどのような執筆ライフをお過ごしでしょうか?

さてさて、
僕らを不幸に突き落とす一つの原因は、比較という概念からきているのではないか?
って思うんですよね。

大体ねー。
「私は足りない」
という思い。

こいつも比較の概念があるから生まれてくる錯覚なんですよ。
こいつのせいで、どうも僕らは無駄に不幸感を感じてしまったりするんです。

足りないなんて嘘ですからね。
あんまり、かわいいかわいい自分ちゃんをそんな嘘でいじめてあげないでくださいね。

 

他人との比較は無駄もいいところ

さて、
そんな比較の概念なんですが、
比較をするとどうしても自分の足りなさというものに目が行っちゃいがちなんですよねー。

他の人と自分を比較する時も、
わざわざ、自分に足りないと思っているものを持ち出してきて、
その足りないものを持っている人をいちいち引っ張り込んで比較するんです。

そんなん、最初から負け勝負を選んで、案の定負けて落ち込むってのをやってるだけですもんね。

そりゃーツラいですよ。

そんなことやり出したら、いくらでも自分の足りない部分を見つけることができますからねぇ。

あ、言っておきますけど本当に足りないってことじゃないんですよ。
比較の概念を持ち出すときには、その比較の定義ってのをでっちあげなきゃならないわけでして、そのでっち上げられた定義を自分にはめ込むから、なんか自分が足りないと思い込んでいるだけなんです。

よくよく観察してみると、他人になくて自分にあるものだっていくらでもありますし、比較の定義を持ち出すと、どうにでもでっちあげることができちゃいますからねぇ。

他人との比較なんてそもそも幻想のようなものですから、
無駄もいいところなんですよ。

自分との比較はもっと無駄

さて、他人との比較は無駄なものですが、もっと無駄なのが自分との比較です。

「え?自分と自分を比較するの?そんなことしたことないけど、、、。」
って思うかもしれませんけどねー。

これが結構やってるんですよね。
他人との比較なら、その他人って勝手に自分が作った他人像でしかないってのはわかりやすいから、
「あ、確かに他人との比較って不毛だよね」
って理解しやすいんですが、

自分との比較となると、その自分は事実であるって思い込んじゃってるからね。
中々この不毛さに気付きにくかったりするんです。

では、自分との比較ってどういうことをやりがちなのか?
と言いますと、
過去の自分との比較です。

「若い頃はこうだったのにな〜」
みたいなやつですね。

他にも、こうあるべきだった自分との比較だとか、
あの時こうしていたらきっとこうなっていた自分との比較とかね。
いもしない自分をいくらでも作り上げては、比較して落ち込むなんてことがあるんですよね。

これ、ホントに無駄もいいところなんですよ。

その自分ってね。
幻想そのものですからね。

そんないもしない幻想と比較して今の自分の足りなさを嘆くってねぇ。
まさに、自傷行為のようなものです。

イメージで作り上げた幽霊と比較しているようなものですからね。

兎にも角にも、比較して落ち込むなんてのは不毛ですし、
そもそも比較の定義自体がウソですので、無駄なんです。

自傷行為をして傷つくのは自分です。
それよりも、もっと自分を可愛がってあげてくださいね!

 

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!