Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

コレと原点回帰のお話

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

原点にもどれ〜!
ってなことがね。
よく言われたりするじゃないですか。

結局ね。ボタンがズレてたら後でどう頑張ったってつじつまを合わせることが出来ませんもんね。
そういう場合は最初からやり直したほうが早いわけです。

あなたの原点はなんですか?
みたいな質問もありますよね。

あれはきっと、今、自分が一番影響を受けていると思われる記憶の話なんだと思います。
つまり、僕らが頭の中で形作るストーリーは全て記憶によって構成されるわけです。

そして、記憶ってね。
言葉で出来ているんじゃないんですよね。

言葉で覚えてられる記憶は短期記憶なんです。
長期記憶は映像と感覚なんです。

感覚とは手触りや空気感、匂い、温度感やのようなものですが、
いわゆる体の感覚なんです。
これと映像がセットになっているような感じですね。

なので、体験したことというのは長期記憶に残りやすいわけです。

ま、なので言葉であれこれ解釈しようとしても、
それはすぐにどこかに消え失せてしまうんです。

それよりも体験したほうがガッツリと残るんですねー。

さてさて、
ちょっと話がそれましたが、
この原点回帰について、今日は書いてみたいと思います。

 

原点はどこにある?

ま、冒頭にも書きましたが、あなたの原点はなに?
についてなんですが、

ここで、思考を形作る記憶にその原点を探そうとしますとね。
それは本質的な原点とは違うものになってしまうんですよね。

記憶に残っているものはすべて、途中ものですからね。
なので、わたしの原点だと思っているものはすべて途中の点なんです。

だって、記憶からあらゆるモノが誕生するわけじゃありませんもんね。

となると、僕らの原点はどこにあるのか?というと記憶以前のものとなります。

となりますとね。
原点回帰しようとすると、僕らはそれを思考で探し当てることは出来ないということになるんです。

つまり原点の私とは思考ではありません。

肉体意識

となるともうあらゆる思考に頼るのをやめるしかありません。
また、僕らは赤ん坊の頃から持ち始めたある種の意識があるのですが、
それが肉体的な意識です。
体感覚の意識って感じでしょうか?
これもね。
原点ではありません。なぜならこれも途中ですからね。

僕らは生まれたときが最初だと思っているフシがありますが、
違いますよね。
生まれる前にも存在していたはずです。
オギャーって生まれる前も、同じ姿かたちで、お母さんのお腹の中にいたはずですよね。
無から生じたわけではないんです。

そして、姿かたち、すなわち肉体はずっと形を変えつづけているわけでして、
それは状態です。状態は儚く常に変わるものなんです。

つまり原点の私とは肉体でもありません。

原点は指し示すことが出来ない

思考でも肉体でもないもの。
となると、原点とはなにか?と指し示すことはもう出来ませんね。

指し示すとは、なにか一点に絞り込まなきゃいけませんし、
思考で納得できるものにしなきゃいけませんが、
コレは思考以前ものもであり、肉体以前のものであるのだとしたら、
指し示すことが出来ないもの。
これが原点であるということになります。

そもそも僕らは、というか思考は、この世界のあらゆるものは指し示すことができる。
っていうね。
壮大な誤解をしているんですよね。
そもそも指し示すことができるものなんてないんです。

そして、その壮大な誤解のせいで、僕らは真実を見逃しているわけです。

原点はすでにココにある

では、原点にどうやって回帰すれば良いのか?
ってことなんですけどね。

僕らは、この原点から一歩も動いていないんです。
だからもうすでにココが原点なんです。

何も指ししめず、肉体以前のただ在る意識。
それが原点です。

この原点は同時に全てでもあります。
僕らはこのことをすでに知っているんです。

知っているからこそ、この原点を愛しているんです。
そして、この原点を知っているからこそ、
思考の中で作られた世界観に不足感を感じますし、
自分という枠が十分でないと感じているわけです。

でもその枠をいくら広げようとしても、全てにはなりえません。
なので、比較によってなんとか満足しようとするわけですが、
この比較によって得られた満足は、比較によって打ち砕かれてしまうんです。

状態は常に儚いものですからね〜。

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