Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

エネルギー的って何なのよ?

はじめに

はーい。
おはようございます。

お気に入りのコントは
ダウンタウンの野生の王国です。

よかったらみなさんもyoutubeなどで探してくださいまし。
面白いですよ。

さてさて、
コントの野生の王国もいいですが、
昔、同名のテレビ番組がありましてね〜。

これも好きでしたね。自然と動物のドキュメンタリーものなんですけどね。
良いですよね!動物!

僕は生き物が好きですのでね。
こどもの頃から、常に何かしら飼っていますし、
動物のミニフィギュアなんてみたら今でもワクワクしちゃいます。

部屋中に飾りたくなってしまいますよね。

さてさて、
今日はそんな野生の感性ってなものをテーマに書いてみたいと思います。

 

エネルギー的??

よくね。
こういった非二元のお話の中には、
この話はエネルギー的なんです。

みたいなね。
そんなフレーズがあったりしますよね。

これはエネルギー的な解放なんです。
とかとか。

ちょっとひどいのは、
いわゆる覚者の周りには特別なエネルギーがあって、
それに触れると、何かがどうにかなる。

みたいなね。
そういうお話も聞いたことがあったりします。

こういう話を聞いた時、皆さんはどのように感じたりしていますか?
うん。うん。なるほど〜!って感じでしょうか?

でも、やっぱり、、。

「エネルギー的ってなんやねんっ!」

ってつっこみたくなったりはしませんか?
ただ、みんなうなずいてるから聞きにくい。
みたいなね。

ああ、そんなエネルギーを感じたい!
きっと私はそのような感覚をまだ感じてないからわからないんだ!

って思ったりする方もおられるかもしれませんね。

エネルギー的とは?

このエネルギー的ってどういうことやねん!
といいますとね。

なんていうか、解釈じゃないよ!ということなんです。
僕らが頭の中でやっている解釈って静的なんですよね。
無味無臭というかなんというか。

言葉というのも、なんていうか静的じゃないですか。
でも、声のトーンとか大きさとか、会話の中での相手の表情とか、
空気感とか温度とか、
そういうのって、言葉ではない何か?がありますよね。
ダイナミズムといいますか。

また、目の前のあらゆるモノ。
これもね。言葉で解釈すると、途端に意味と目的を持った道具のように見えてしまいますが、言葉を通さずに観ると、なんていうかダイレクトな働きだけが残りますよね。

この世の中に静止しているものは一切なく、全ては常に起こっている!
この感じがいわゆるエネルギー的と言っているわけです。

別にね。
覚者とかいう誰かがいるわけではありません。
そんな人はいてませんし、そういった特別な人の周りに何か特別なエネルギー地場のようなものが発生しているというわけでもありません。

サットサン(笑)に行けば、そこで覚者の周囲にある特別なエネルギーを感じられるということでもありません。

むしろ、特別さを得ようとすることが、目の前のダイレクトさから目をそらし盲目になってしまう要因になっているんです。

ただ観る

じゃあ、どうやってそんなエネルギー的を感じたらいいの?
って話なんですけどね。

すでにもう感じているんですよ。
どこにいても、何をしててもね。

それはどこか特別な場所に存在するのではなく、常にココに存在しているんです。
ただ、そこから目をそらしているだけなんです。

目の前にあるのに、無いと感じてしまっているといった感じです。
小さな音が、大きな音楽にかき消されているだけなんです。

なので、言葉の解釈の一切を、今だけちょっと降ろしてみるんです。
名もない感覚をただ感じてみる。
能動的に感じて解釈しようとするのではなく、何もせずにただ在ってみるんです。

ほら、僕ら動物と人間の大きな違いって、複雑な言語体系を持っているかどうか?
というのがあると思うんですよね。

動物はあらゆるもの全てを言語に置き換えたりはしてないと思うんですよ。
多少の言語は使ってるのもいますけどね。
人間ほどじゃないはずなんです。

置き換えるから、みえなくなってしまっているんですよね。

解釈を通さずにただ在ってみるんです。
これがねー。観るということなんです。

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