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非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

我思う、ゆえに我あり。の間違い

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哲学の分野で最も有名な言葉の一つがね、
「我思う、ゆえに我あり」という言葉なんですけどねー。

でもねー。
ぼく、
これ間違いだと思ってるんですよ。

なんでそーなるねん!
違いますがなっ!

ってねー。

でね。
いわゆる「それ」の発見。
悟り。

これが起こるということは、

「我思う、ゆえに我あり」
って全然違うじゃーんっ!
という発見のことでもあるじゃないやろか?
ってねー。

もうねぇ。
これが、あらゆる勘違いを生じさせていたんじゃん!
って言う話なんです。

というわけで、
今日は、
「我思う、ゆえに我あり」
って間違いだよ!と言う話を書いてみたいと思います。
このテーマは、ずいぶん前にも書いた気がしますが、
あと数回はこのテーマを使ってやろうかとおもてます。

 

まず、
「我思う、ゆえに我あり」
の何が間違いなの?
といいますと、

この言葉ってね。

私は思ったり考えたりするよねぇ。
だから、私はいるよね!

って話なんですが、
いる。いない。
ある。ない。
ってね。
そもそも考えの中にしかない解釈なんですよね。

考え。
思う。ということ。
これは解釈をするということでして、
この解釈に、
ある、ない。
いる。いない。
といったルールがあるわけです。

思うの中に、「ある、ない」があるわけであって、
この思うことが起こることはなんら「私」があるという証明にはなってないんです。

なんていうかなー。

「大丈夫!そのうちなんとかなるよ!」
「だって、空を見てみろよ!こんなに空は広大なんだぜ!!」

と言ってるのと変わらない感じなんです。

解釈ってね。全然真実性はないんですよねー。
なぜなら、解釈には定義が必要だからねー。

この定義というのは、いわゆる「ルール」です。

こう言うことにしておきましょうねー。ということなんです。
これがないと解釈は進みません。

そして、僕らの思考や考えというのは、解釈のことですので、
その解釈の元には必ずルールが存在しているんです。

僕らはこの解釈を真実として観ることによって、
的を外してしまっているんです。

「自分」や「私」というものも、解釈を始めるための定義づけでしかないのですが、
僕らはこの「自分」や「私」を知覚や心情や思いと同化させて、真実性を帯びさせています。

なので、どうしても「私」はいるじゃん!

というふうに捉えて疑わないんです。

思いと私は別物ですし、
知覚と私も別物なんですけどねー。

何かの解釈をするからには、どうしても無意識的に「私」を作り出さないことには始まらないのと同時に、この解釈を真実と扱うことが、解釈をしようとする動機付けにもなってるんです。

ありのままに見ると言うのは、思いを思いとしてみるということであり、
知覚は知覚として見ると言うことでもあるんですよねー。

すると、
あ、そうか!解釈なんだ!
ということが明らかになってきます。

そうなってきますと、解釈は解釈となり、
解釈は真実へとねじ曲げられなくなってきます。

この真実性が深刻さを生じさせていたこと、
また、深刻さは繰り返しを生じさせていたと言うことに
気づくんですよねー。

 

 

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