Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

因果という錯覚

f:id:takuteto:20220324091313j:plain

はじめに

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

たしか、紳助さんだったかなぁ。
松紳っていう番組だったかもしれないけど、
漫才を面白くするコツについて語ってはったんですけど、
ほんのちょっとだけ、真実を入れるとぐんと話が面白くなる!

ってな話をされておりましてね〜。

たしかにそ〜だよな〜って思いました。

僕らってね。
話の中に、たしかにこれは真実だ!と感じる部分が少しでもあると、
他の話も真実だ!って思い込んじゃうってなことがあるんですよね。

作り話だと思ってるとリアル感はあまり感じないんですが、
真実が少し入っているとぐっとリアル感がまして物語に説得力が出てくるんですよね。

これは、お笑いだけではなく、詐欺師のトークも一緒です。
新興宗教の勧誘なんかもそうかもしれませんね。
この場合は最初に普遍的でそれでいて人が安心できるようなことを言った後、徐々に人を縛る教義が続いていくってな手法です。

思考ちゃんは、何でも整合性を取ろうとしちゃいますから、
ここが真実だということは、これ以外も真実なんだ!
みたいなね。
そんな変な理解をしちゃったりするのかもしれません。

 

主体者はいない

我思う。故に我あり。
も似たような感じの錯覚を誘導しています。

我思う。故に我あり。
というのは、どういうことかというと、
私は考える。だから私は存在しているのだ。
という意味です。

この世界のありとあらゆることを疑い否定してみたとしても、
確実に言えるのは、私は存在しているということだ!

みたいな意味ですね。

でもね。
ココに思考の大きな錯覚があるんです。

思考には、思考に浮かぶ以前の大前提の決まりごと。
つまり、言うまでもない当たり前のこと。みたいなものが存在しているんです。
それが、
主体者がいる。
という思考なんです。

主体者というものは、存在しておりません。
ですが、思考の中では、ありとあらゆることには主体者が存在している。
という思い込みがあるんです。

主体者がいるというのは、言い換えると、
あらゆることには原因があるということになります。

つまり因果ですね。

因果の錯覚

この因果がなければ、ストーリーは成り立ちません。
だから、全てには因果が存在すると錯覚しているんです。

僕らの思考とはストーリーそのものです。
そして、話が上手い人は共感されるストーリー作りが上手い人なんです。

この共感という部分にあるもの。
それが、因果なんです。

これはつまり、こういうことです。
だから、こうなればこうなるんです!

みたいなね。
そういう表現が上手なんです。

「あなたは、今幸せですか??」
「ほう。幸せじゃない。」
「ということは、今のあなたを変えなければ幸せにはなれませんね!」
「つまり、あなたの考えていることは間違っているんです。」
「その考えを改めれば、あなたは即座に幸せになれるでしょう!」

みたいなね。
そういう詐欺トークも一見、本当のように聞こえたりするじゃないですか。
これも因果という錯覚をつかったトーク術なんですよね〜。

良いも悪いもありません

そもそもね。
良いも悪いもありません。

良いと悪いなんていう分離が存在していないんです。

幸せと不幸というのも、何かしらの判断基準がないと分離させることは出来ませんし、
この判断基準っていうのは、勝手なルールに過ぎないんです。

もちろん、共感者が多いルールというものもあるかもしれません。

ですが、何かしらのルールで幸せと不幸を分けてしまうと、今後、このルールの顔色をずっと伺わないといけないことになっちゃうんですよね。

ルールを真実としちゃうと、途端に僕らはこのルールに乗っ取られてしまうんです。

ルールとは、楽しく遊ぶための決め事に過ぎず、それは鬼ごっこのルールと同じなんですよね。

でもルールに乗っ取られた途端、それは深刻なものとしてのしかかり、僕らを縛ってしまうんです。

これもまた、分離が生み出す錯覚なんです。

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!