Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【不十分という幻想】あらゆる体験に価値の差はない

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はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

ま、皆さん、こういうお話に興味がおありだということは、
きっと色んな人の目覚めの体験にあこがれるぅうぅ〜ってなった方も多いんじゃないかな?
って思います。

ま、僕もそうなんですけどね。

ブッダだって、なんだか瞑想をしていたら解脱してブッダになっただとか、
やれ、誰かが霊的に目覚めただとか、
霊的ってなんやねんっ!って話なんですけどね。

ま、そういう目覚めの体験話に触れた方も多いと思います。

僕もこのブログのどこかでそういうことを書いてます。

ちなみに、僕がええなぁ〜って思った体験は、エックハルト・トールさんとラマナさんかな。
ラマナさんに至っては徹底してて、ネズミにかじられても瞑想していたってなことですのでね〜。
いやぁ〜、やばいっすね。
下手したらドラえもんじゃん!ってことですもんね。

 

あらゆる体験に価値の差はない

でもね。体験って実はすごくはないんです。
すごく感じるのは、この体験を言葉で起こしているからなんですよね。

全てはミラクルである。
この世は愛とミラクルだけ!
全ては許されている。
至福がここにある。
全ては完璧である。

みたいなね。
言葉に起こすとこんな言葉になるわけですが、
ま、どちらかというと僕らが平凡だと思っていることこそがまさにコレであり、
その究極の平凡がココにある!
ってことですからね〜。

つまり、平凡中の平凡。それが奇跡であり至福であり愛だというわけです。

僕らは、そんな平凡の中、特別さに目を奪われ、特別さを求めているわけです。

そして、ありとあらゆる特別さを超えた特別さとして、
平凡を求めるっていうことなんですね〜。

そういえば、贅沢三昧をしていたとある知り合いの社長が
「もう料亭のご馳走は飽きたから、今はお茶漬けと漬物がうまいのよ。」
って言ってましたが、まさにそんな感じなのかもしれませんね。

ま、そのお茶漬けを料亭で食ってるとか言ってたので、
アホかこいつ。って思いましたけど。

繰り返される目覚め

いわゆるスピ系の先生方をウォッチしていると、
きっと皆さんも気づくかと思いますが、
あの人達は、定期的に目覚めるんですよね(笑)。

ある日に、生まれ変わるんです。
定期的にね。

あれー?こないだも目覚めたって言ってなかったでしたっけ?
って思うんですけどね。

あの人達は定期的に生まれ変わるんです。

「そして、旧暦の◯◯の日に私は更に目覚めました!」
ってなことを宣言されるんですよね。

なぜか、暦は旧暦が好きっぽいです(笑)。
(知らんけど)

ま、そしてそういう体験話を聞いちゃうと、
いいなぁ〜って思っちゃうのが人間のサガでもあるんですよね。

これが、いわゆる探求のエサになっちゃうわけです。

体験は「それ」とは関係ないよ〜ってな話を僕がよくしているのは、
そういうことだったりするんですけどね。

僕らは常に探求を求めているわけですので、
同時に探求のエサが与えられることを求めていたりするんです。
でもそれだと探求は終わらないんです。

なぜなら、探求の終わりとは、探求を終わらせることですからね。
そして、それはその探求の終わりは常に「今」開かれているんです。

不十分という幻想

「今」じゃないどこかに求める自分。
それは、きっと今よりも別の自分を求めていることになるわけですが、
それと同時に、今の自分は不十分であるということにしちゃってるんです。
だから、色んな人の体験話を聞くと、自分にもこんな体験があると、
この体験が自分の不十分さを埋めてくれるんじゃないか?
と錯覚するんです。

許しってのはね。
許せる自分になるということじゃないんです。
自分がまだ不十分であるという錯覚から目覚めようぜ!ってことなんですね〜。

そして、許されてみると明らかになるのが、今ココにある完全さなんです。
ややこしいのは、許せる自分になるということじゃないってことなんです。

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