Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「ある・ない」の概念と「当事者」という概念

f:id:takuteto:20211206092232j:plain

【はじめに】

髪の毛は生えてる時きれいやけど落ちとったらムチャ汚い
(by ユリアン)

ほい。
というわけで、
どうもおはようございます。
ユリアンさんは面白いから好きです。
天才なんじゃないか?と思っておるタクさんです。

まあね。
僕も「私はいない」なんてことをゆーたりしてるんですけど、
じゃあ、今喋ってるアナタはなんなの?
ってね。

いないと言われると、色々と疑問が湧いて出てくるもんですよね〜。

でも、
逆に、
じゃあ、いるのだとしたら、アナタは何なの?
って聞かれると、、、、。

うーん。
わからん。。。

ってなってしまうわけです。

そのせいで、若者は私を探しにインドに行ってしまうわけですねー。

ま、「私」としての代表的なものは「身体」です。

たしかに、この身体は、「私」である。
というような気がしますよね〜。

一番身近にありますからね。

じゃあ、身体とは何処から何処まで?
ってなると、
ん?どゆこと??

ってなるわけです。

生えてる髪の毛は、「私」だけど、落ちた髪の毛は途端にゴミになってしまう。

これって、身体から離れたら私じゃなくなる?
ってことにもなってしまいますもんね〜。

 

【髪の毛は生えてる時きれいやけど落ちとったらムチャ汚い】

爪だってそうです。
切っちゃえば、それはもう「私」じゃなくなるわけです。

これって、変ですよねぇ?

変な話、手が切れちゃうと、それは私ではなくなるわけです。

では、体の何処から何処までが「私」なの??
ってなると、
これって、無いわけなんですよね。

つまり、僕らが「私」と定義しているものは、
心持ちとして、一番身近にあると感じているもの。

これが「私」なんです。

そして、対象となるものは「私」ではなくなるんです。

クラス対抗運動会!なんてものをやっていると、
他のクラスは対象であり、自分のクラスがいわば「私」になるわけです。

そして、それが甲子園に自分の学校が出ようものなら、
他の学校が対象となり、自身の学校が「私側」になるわけです。

つねに「私」というのは、その時々の対象よりも身近に感じられるものに当てはめられるんですねー。

この身近な感覚。
この感覚を僕らは「私」と呼んでいる訳でして、
常に身体が私だというわけでもないんですよね。

足をケガしたなら、その足は対象でもあり私でもあるわけです。

【手を叩いたらイタイんだから私はいるでしょ?】

でね。
次に来る疑問は、
「でも手を叩いたらイタイじゃん!」
「この痛みを感じているのは私でしょ??」
「私以外に誰がいるの??」
っていう疑問です。

ほら!やっぱり私はいる!

ってなもんです。

これは、哲学の基本中の基本。
「我思う、故に我在り」
に通じるものがありますよね。

あらゆる存在を疑ったとしても、
この思いがある限り、自分自身は疑いようがなく在る。
ってことです。

でもねぇ。
この理論は、疑うべき大事なものを見逃しているんですよ。

それがね。
「ある・ない」の概念なんです。

【「ある・ない」の概念と「当事者」という概念】

哲学ってね。
これは「ある」のか?それとも「ない」のか?
ってなことをやるじゃないですか。

でも、これってそもそも「ある・ない」という概念を採用した上での話なんですよね。

「ある・ない」ってのは概念でしかないんです。
概念とはこういうことにしておこうねーという、
いわばルールのようなものなんです。

つまり、私というものは「いる」でも「いない」でも無いということなんです。

私って何処を探してもいませんよね。
つまり私はいないんです。
っていう説明はちょっと片手落ちでもあるんです。

私ってものは、あるでもないでも無いわけでして、
そもそも、「ある・ない」こそが概念上でしか存在しない、いわば空想のようなものなんですねー。

ちなみに、叩いたらイタイから私がいる。
っていうのも、あらゆるものには当事者がいるっている概念を採用しているだけであって、実際に起っているのは、イタイと呼ぶ以前の何かでしかないわけです。

「ある・ない」も概念であり、「当事者」というのも概念なんですねー。

僕らは何かしらの概念を採用して初めて、「ある・ない」を判別し始めるんです。

そして、その判別は全てイメージなんです。

 

takuteto.hatenablog.com