Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

強力な誘惑

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お釈迦さんが悟りを開かんと、
菩提樹の前で瞑想をしていた時、
マーラが現れて、それを邪魔しようとしたとかなんとか。
そんなお話があります。

ときには、怖がらせたり、
ときには、誘惑をしたりして、
なんとかお釈迦さんの悟りを邪魔してやろうと頑張ったわけですが、
お釈迦さんはマーラを打ち破り、悟りを開いたのですぅ。

みたいなお話ですね。

詳しくは知りませんが、
手塚治虫さんのブッダではなんかそんな感じだったと思います。

 

でね。
ふと思ったんですけど、

「そのまんまのそれそのもの」を邪魔する1番の誘惑って、もしかしたら
自分で自分を軽んじることなんとちゃうやろか?
なーんて思ったんですよねん。

普通、誘惑っていうと、
なんていうか自堕落にグダグダするとか、
思考にまみれてしまうとか、
感情に任せて自分を見失っちゃうとか、

そういうことを考えがちですが、
僕は、なんていうか自堕落にグダグダするの大好きなこともあって、
それらはええんちゃうん?
って思うんですよね。

思考が起こってもいいですし、
感情に任せちゃうのだって良いやないですか!

って思うんですよねん。

そりゃ、最初はね。
思考を思考とすら気づけなかったり、感情に任せてるっていうことにすら気付けなかったりするんでね。
そういう動きがあるよーっていうのを見るために、
思考や感情をただ見てみて、それに流されない練習をしてみるのも良いと思うんですけどねー。

でもそれをエスカレートさせて、一切の感情や思考を占め出さなきゃならない!
ってなると、
そりゃ無理っしょ♪って事ですのでねー。

ありのままをありのままに見ると、ありのままが明らかになってくる訳ですけどね。
それって、無条件でありのままですのでねー。
無条件とは、いかなる条件もないっちゅうことです。

なので、思考や感情が起こってるなら、それもありのままなんです。
よーく見て見ると、思考や感情は、思考や感情ですらなく、単なる反応のようなもので、そこにパワーは一切なく、
それにパワーがあるように思わせているのが「自分」という観念から起こる「恐れ」だったりして、
さらには、その「自分」は分離感というものから来ていてー。

ってなる訳ですけど、

思考や感情があるからあかん!
ってやってしまうと、もう「ありのまま」じゃないあさっての方向を見ちゃうことになったりしますからねー。

で、
自分は「これこれこういう理由があるから」まだダメ。
みたいなね。

そういう観念も作っちゃいますのでねー。

なのでね。

誘惑があるとするなら、1番厄介なのは、
自分を軽んじるという誘惑なんとちゃうかいなぁ?

って思う訳なんです。

これ、
ちょっと気を抜くと、
周りの人たちとの会話や、
社会での生活。
仕事でのゴタゴタなんかですぐに自分への愛がおざなりになってしまいますからねー。

そうするとその分、自己を過小評価へと導いてしまうっちゅうわけです。
そして過小評価した分それを埋めるためにまた探求しなきゃならなくなるんですよねん。
足りない分は自分への過小評価分やったわけです。

公式にすると、
自分+足りない自分=自分ー過小評価分

両辺から自分を相殺すると、自分は消え、
足りない=過小評価分
になりますね。

うん。
つまり、足りないと思っている自分は、自分で勝手に過小評価した分だけそう思うようになっているっちゅうことになりますな。

なので、もし、
自分はちょっとダメだーっていう思いがあるのだとしたらね。

ちょいまてーい!
もしかしたら、ワシはなんか観念を持ち込んどるんとちゃうか?
だって、ダメな訳無いはずやのに!!!

っていうねー。
そういう視点でちょっと見てみたらいいかもしれません。

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