Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ありのままに、あるがまま

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【はじめに】

ほい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさん。
高いところは怖いですか?

子供の頃ってやたら高いところに登ったり、
ジャンプしておりたりしてましたよね〜。

なので、やたらと足をくじいてたような気がします。
ぴょんと飛んで降りたときに、
あ、これはやったな!ってなるんですよねー。

ちなみに着地のときに地面ずっとみていると、
自分の膝で顔面を強打する!
なんてこともあったりしてね。

子供の頃はよくケガをしたものでした。

ちなみに、高層マンションで育った子供は高いところを怖がらない。
なんてことを聞いたことがあるのですが、どうなんでしょうねぇ。

怖くないから平気で高いところから飛び降りようとするから、
ケガをよくするんだとか、、、。

まあ、ケガをしたら怖くなるとは思うんですけどね。

 

【上昇と下降という錯覚】

さてさて。
僕らって、上昇は好きですけど、下降ってやっぱりイヤですよね。

そして、上昇というと、何かを掴んで上に登っていく。
下降というと、な~んにもしないでただ落ちていく。

みたいなね。
そんなイメージがあるかもしれません。

学校の勉強だってねぇ。
勉強すればするほど、点数が上がって成績は上昇していきますし、
な~んにもしなけりゃ、どんどんと成績は落ちていきますからね。

子供の頃から、こういったシステムを叩き込まれたせいなのか、
どうも、常に何かを掴み、上昇していかなければならない。
っていうね。

そんな錯覚が僕らにはあるのかもしれません。

【登ろうとするから、何かを掴まなければならなくなる】

まあそんなわけなので、僕らは何をするにも、
高みに登ろうとするわけです。
登るためには、何かしらの取っ掛かりを探し、
それを掴み取る。
これを繰り返していくと、高みに登っていく。
っていうね。
そういうことをやるんですよね。

ただ、思考を手放す。自我ちゃんを手放すというのは、
何かを掴み取って高みに登るということじゃなく、

スーッと落ちていくに任せる。

という感じなんですよね〜。

この違いが、僕らを混乱させている原因なのかもしれません。

【手放すことに方法はありません】

本来、手放すのに、方法はありません。
ただ手放すだけですのでね。

でも僕らはどうしても手放す方法を探してしまったりするわけです。

受け入れていけばいいの?
許しのワークをすればいいの?
毎日瞑想なり座禅なりを繰り返せばいいの?

やれるだけやってるんだけど、まだ何も掴めない。

ってね。
結局、なにかを掴もうとするわけですが、
何を掴んだら良いのか?どういう順序でつかみ取り高みに登っていけば良いのか?

そういうことを誰も教えてくれないので混乱しちゃうわけなんです。

また、なにかしらの教えを聞いて、それを実践し掴んでいると、
「それは違う!」
って言われたりしてね。

余計に混乱しちゃうんですよね。

【ありのままに、あるがまま】

僕らは、手放すと、どうしても奈落の底に落ちていってしまうっていうね。
そういう恐怖感があるのかもしれません。

だから、ついつい何かしらつかめるものは無いのか?
と探しちゃうんですね〜。

でも、この話は、スーッと落ちていってしまいましょう。
という話なんですよね。

それが、流れに乗るということでもあるんです。

流れに乗っていると、ちゃんと広大な海にたどり着くのに、
あれこれと何かをつかみ取り、そこにとどまろうとしたり、逆らおうとすることで、
流れを全身に浴びることによって、抵抗感を感じてしまう。

みたいなね。
そんな感じになっているのかもしれません。

ま、そもそも、高いも低いもありませんからね。
なので、安心して手を離して、落ちていくに任せてしまえば良いんです。
この落ちる感覚は錯覚なんです。

スーッと落ちていく。
これが、なんでも無いありのままに、あるがままになってみる。
ということなんです。

そして、この「ありのまま」こそ、すでに完成されていて、完璧なんです。

 

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