Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

夢から醒めて普通になる

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【はじめに】

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

なんだか今日はオネムです。
みなさんごきげんいかがでしょうか?

いやねー。
こういうブログを書いてますとね。

じゃあタクさんは不安を感じることはないんですか?
恐怖とは無縁なんですか?

みたいなね。
そういう質問を頂いたりもするわけですが、

「んなわけねーじゃん!」

ってねー。
思ったりしております。

ほななにかい!
わしゃ、不感症か!!!

ってねー。
思ったりもするわけですが、

まー、とはいえね。
聞きたくなる気持ちはわかります。

結局のところ、僕らって、全てに理屈があって、
どんなことも理屈で動いているってね。
そんな錯覚をしてたりするんですよね。

だから、感情も理屈でなんとかなるっていう錯覚があったりするわけです。

 

【恐怖と喜びに良し悪しはない】

ま、不安や恐怖ってね。別に悪いことじゃありませんのでね。
喜びも安心も不安も恐怖もそこに良し悪しはないわけです。

もし、不安とおさらばしたいというのなら、安心ともおさらばということになりますし、
恐怖がないなら、喜びもないってことにもなります。

そんなねー。
不感症になるっていう話ではないんですよね。

ただ、恐怖や不安を過度に嫌がるってことはね。
実はもうあまりないんですよね。

イヤはイヤですよ。
でも、以前のように何度も反芻しては嫌がるを繰り返す。
ということはねー。
なかなかやりにくくはなっております。

これってね。
ドッキリだと最初に告げられたあとで、ちゃんとびっくりできるのか?
というと、やはりちょっと難しいじゃないですか。
そんな感じなんですよね。

【理屈の感情と反応の感情】

でね。
僕らの感情ってね。ホントは反応なんですよね。
反応した後に無理くり理屈を加えているだけなんです。
そして、理屈による感情に作り変えているというわけです。

感情を長引かせる理屈を掴み取っちゃうと、その感情を反芻することになります。

例えばね。
山道を歩いていて、毒蛇に出くわすとします。
するとね。
うわっ!ってビックリしますよね。
これが反応です。
そのあとに、毒蛇だ!やばい!ってね。

反応に恐怖という観念が加わるわけですね。

ですが、よくよく見てみるとそれはロープだったとすると、
「なーんだ。ロープか」
ってなもんで、恐怖は収まります。

これと一緒でね。
別にあらゆる反応は起こるときには起こるんです。

そしてこの反応は恐怖であるという思考もちゃんと起こります。

でもこのロープを蛇だと思い続けているとすると、恐怖は消えませんよね。
これは、ロープを蛇だと思い続けることで、ずっとその恐怖を反芻することになる。
ということなんです。

無理くり付け加えた理屈。それは思考によるストーリーです。

でもこのストーリーをリアルだと錯覚し続けると、その恐怖を反芻することになるんです。

【夢から醒めて普通になる】

ま、そんなわけでしてね。
思考のストーリーで無理くり反芻し続けること。
これが、苦を演出するというわけなんですよね〜。

ここが錯覚だというわけです。

反応によって起こる恐怖や不安は別に恐れることはありません。
これが、全ては起こっては消えていくということなんです。

理屈のストーリーで、その起こったことがココに漂い続けていると錯覚しているだけなんです。
もちろんね。
思考の働きも変わらず起こり続けますから、多少の反芻は起こりますよ。
でも、その思考を無理くりそこにとどまらせておくにはかなりのエネルギーを必要とします。
このエネルギーを担保するのが、思考は真実であるという錯覚であり、
この思考が自分であるという錯覚なんですよね。

この錯覚だけが抜けていくというわけです。
錯覚から目覚めるというわけです。

でも感覚としては、別に当たり前に戻ってくるという感じでして、
神秘的なものでも、特別なものでもありません。

普通になるという感じなんです。
まるで、夢から醒めたみたいにね。

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