Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

反芻(はんすう)が苦悩を演出する

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【はじめに】

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

これは思考のストーリーだ〜!
思考は分離の概念で持って働いている〜!

とか書いているわけですが、

だからといって思考が起こること。
これが悪いことじゃありませんからね。

コーヒーはコーヒー豆から出来ている〜!
といったところで、別にコーヒーは悪いものじゃありませんよね。
それと一緒で、

思考は、分離の概念で持ってストーリーを紡いでいる。
ということでしてね。

それ以上でもそれ以下でもないんです。

ま、とにかくなんでもかんでも思考は良いと悪いに分けて捉えたがりますからね。

「そうか!思考が悪者なんだ!」

って判断しちゃうんですよね。
ま、それをやってるのもまた、思考なんですけどね。

 

【思考に苦しむわけ】

僕らが思考によって苦しむサイクルというのは、
思考のストーリーが体に緊張感を演出するからです。

ただし、これもまた悪いことではありません。

あ、この状況はあのとき、大怪我をしたときと似た状況だ!
気をつけなければ!

という信号のようなものですからね。

ただ、今度はこの緊張感に対して思考がまた判断をするところからループが始まるんですよね。

どういうことかというと、
思考のストーリーが体の緊張感を演出する。
そして、演出された緊張感に対して、思考が判断をする。
その判断を受けてまた体が緊張感を演出する。

っていうループです。

これってもう、無いものに対して体が反応しておりますので、
幻想のストーリーそのものって感じなんです。

【思考のループが生み出すリアル感】

このループが進んでいくうちに、目の前には全く起こっていない想像について、
あれこれと苦悩するということが進んでいくわけです。

これがこうじてくると、緊張感が演出されっぱなしになって、
食べ物は喉を通らない、熟睡できない。
といった不具合もでてくるんです。

つまりは、思考の反芻(はんすう)。
これが問題なんです。

こうなってくると、
どんどん思考のストーリーに夢中になっていき、
「良い・悪い」という判断からくるストーリーに強くハマっていくというわけです。

起こっては消えていく思考のすべてが悪いわけではありません。
いたずらに、自分をいじめる思考を繰り返すと、そりゃー消耗しますよ。
ということですね。

【今だけ思考から離れてみる】

だから、あ、反芻してるな〜。
って感じたなら、一旦ポンッと手を叩いてみて、
「ハイ以上!しゅうりょーう!」
てなもんでね。

思考から離れてみるんです。

このとき、やっぱりまだ何かを考えていたいっていう衝動に気がつくかもしれません。
これが、執着なんですね。

なぜ、考えていたいという衝動が出てくるのか?というと、
この思考のストーリーこそ真実だという錯覚がこの衝動を演出していたりするんです。

思考から離れてしまうと、真実を置き去りにすることになる。
という恐怖感がうまれてきたりするんですねー。

これはまるで、自動運転の車のハンドルから手を離すということに似ているかもしれません。
自動運転にもかかわらず、自分で運転していると思いこんでいるから、手を離すと危ない!と感じるわけですね。

こう感じるのは、思考としてはもう仕方がないことなので、
危ないと感じる思考を無理くり変えようとしてもうまくいきません。

だから、まずはちょっとだけ、
せめて今だけ、手を離してみること。
それを試してみてどうなるのか?
確かめてみることをオススメします。

自転車の手放し運転と同じようなものです。

最初はパッと一瞬だけ離してみるんです。

あー、反芻してるな〜と感じたときだけでいいから、
ポンと手を叩いて、思考を置いておいてみるんです。

 

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