Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

一瞥体験後に訪れる迷いのワナ

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【はじめに】

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

皆さんはラーメンお好きでしょうか?

いいですよねー!ラーメン!!

僕はねー。
やっぱり、なんだかんだ言いつつ、
博多系が好きですね。

しかもおろしにんにくをたっぷり入れたのが好きです。

にんにくたっぷりラーメンを食べると、もう途端にちょっと体温上がりますからね。
元気もりもりです。

ただ、ニオイがえらいことになっちゃうんですよねー。
丸一日はえらいことになっちゃうので、
予定と相談しながら食べなきゃいけないのが玉にきずでございます。

たまに海外の人にラーメンが食べたいって言われると、
結構なにをオススメしたら良いかわからなくなっちゃいますね。

味噌ラーメンに、とんこつに醤油、
坦々麺に、つけ麺に、、、。

二郎系もあれば家系やその他いろんなチェーン店にも
様々な個性があって、、、。

と、ホント、インドカレーに匹敵するほどのバリエーションがありますもんねー。

皆さんは、どのようなラーメンライフをお過ごしでしょうか?

 

【一瞥体験の後の迷い】

皆さんの中にも、一瞥体験をしたー!って方もおられると思います。

「えー!私はないんですけどー!したいんですけどー!」
って方もおられるでしょうけどねー。

でもね。
一瞥体験にあまりこだわらなくてもいいと思います。
これはあくまで体験ですからね。
このこだわりがなくなってくると、
「お!そういうことか!」
ってなると思うんですよねー。

それよりも、この体験によって起こる変な迷いについて今日は書いてみたいと思います。

結局、体験をしたと言っても、
「とはいえ、何がどうなったんだろう?確かにその時は楽にはなったけど、」
「逆に、楽を知った分、日常がしんどく感じるようになった。」
っていう方も多いと思うんですよねー。

【迷いに付け入る思い込み】

まー、そういう迷いのニーズに応えるためと言いますか、
そもそも先生自体が勘違いしているパターンなんだと思うんですが、

あらゆるスピ系の教えには、この一瞥体験の先の何かが用意されていたりします。

あくまで、この体験は入り口ですよー!みたいな教えですね。

そして、こんなことして、さらにあんな体験があって、
こんなことがわかって、さらにあんなこともわかってきて、、、。
と、どんどんレベルが深まる。
みたいな立て付けです。

詳しくは知りませんが、龍がどうのこうのとか、前世がどうのこうのとか、
はいあーなんとか?なんとか道?みたいなものでしょうか?
まさに、ラーメンくらいバリエーションが豊富でございます。

これってね。
まさに勘違いなんですけど、
なんでこんな勘違いが起こるのか?
といいますと、
体験後であっても、やっぱり、まだ探求のクセが残ってるからなんだと思うんですよねー。
なので、体験を概念化しちゃったりするんですよ。

いわゆる新興宗教の教祖さんもこのパターンが多いんじゃないかなーって思います。

これって、体験を通してそれを今後どのように活かすか論みたいに発展してたりするわけですが、体験をしたからこそ構築する信念みたいになっててねー。

概念や勘違いが悪いわけじゃないですが、どんな概念にも価値の差はありません。

でも、こういうパターンの場合は、神の如くの価値を手に入れた!みたいな概念に取り込まれちゃったりするパターンもあったりして、こじれにこじれてしまうパターンもあったりします。

禅でよく言われる、魔境や生悟りなんてのも、この辺のことについての注意喚起なんでしょうね。

体験はすぐに忘れなさい!と言われるのもそういう意図があってなんでしょうね。
そもそも体験はもう記憶になってしまっていて、記憶になったものは、一つの概念でしかなく、それはもう幻想なんですよね。

だから、体験があって人生が変わった!というのも、あるにはあるんですが、
体験を拠り所にする人生になったというのであれば、
それはトゲを抜いた後に新しいトゲを刺しているだけなんです。

【いったい私は何がわかったのだろうかのワナ】

一瞥体験後に訪れる迷いのワナとはこんな感じです。

「よし!私は求めていたものを手に入れた!」
「何かがはっきりとわかった!」
「とてつもない至福はたしかにあった!」

ってなるんですが、
そこで、

「さて、いったい私は何がわかったんだろう??何を手に入れたんだろう??」
という問いがおこったときに、

何も手に入れてないし、何もわかってないことに気づくんですよね。

そして、
あれ??
あれれ???

ってなってると、
追い討ちをかけるように

「これで、完璧に手に入れたと言えるんだろうか?」

とたたみかけてくるんですよ。

そうなると、とたん探求に戻るんですよねー。
そして、ここで、新しい概念を打ち立てて行って、
あ、少し楽になった!
お!もっと楽になった!
ってなっていくうちに、
「楽になったけど、でも、、、、」
という思いもかさんでいったりするパターンもあるわけですねー。

また打ち立てた新しい概念に価値をつけることによって、
悟り以上の何かを作り上げたりするわけです。

こうなると終わりのない探求に舞い戻るわけですねー。

ま、これは、単に探求のクセが残っているということなんですよね。

では、このクセを治さなければならない!
というのもまた一つの探求であり概念化の始まりだったりするのでややこしいんですけどねー。

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