僕らって普段は、何かを掴み取っておかないとちょっと怖いんですよね。
怖いっていうか、なんていうか手持ち無沙汰っていうか、
宙ぶらりんになったままってのが、なんか気持ち悪く感じたりしちゃうんですね。
なので、何かしらを掴み取ろうとしちゃう。
この宙ぶらりんが気持ち悪いって感じが探求のエネルギーやっちゅうわけなんですけどね。
僕らは当たり前にいろんなことをそのまんま経験しているわけで、
そのダイレクトな経験そのものには、何の名前もなく、
ただ、何かにすらなっていないそのまんまがあるだけなんですけどね。
それを自分ていうのが掴み取って、
これは○○だ!
って経験を固定化したがるんです。
ホントの所は、何にも固定化されたものなんてなく、
全ては流動的に常に流れてるんですけどね。
その流れをカチッと固定化して記憶にしまい込もうとしたがるんですよね。
流動化したものを固定化したところで、ずいぶん取りこぼしちゃうんです。
すると、何かが足りないって感覚が芽生えたりするんですねー。
悟りの体験、一瞥体験なんかも経験の固定化の一種で、
何もないを体験として自我ちゃんのまな板の上に持ち込んじゃうんです。
そうそう、こういう一瞥の体験とかをした人がよく感じるのは、
全ては分離なく生き生きとしてるって感覚なんです。
これもね、常に流動している様を目の当たりにするから、
生命感とか生き生きとした感じを感じるんですけど、
普段は何かを掴み取って概念上で固定化しているものだから、
その生き生き感、流動感が失われてるんですよね。
あと、愛しかないんでスゥ〜。
ってのもよく感じるんですが、これは分離のなさをまざまざと見るからですね。
分離のなさって愛そのものですからねー。
で、それを聞くと、やっぱりどうしても、その状態を掴み取りたいって思っちゃったりするところが、ややこしいところだったりするんですけどね。
でも、あるのはそれだけ。
つまり、名もない経験だけ。
掴み取る誰かもいない中で、それを固定化するという幻想を見ているってわけなんです。
なので、何もつかもうとせず、そのまんまにダイブしてみる感じで、ただ見てみるといいわけなんですよね。
つかみどころがないと、中心ってのがなくなりますので、その経験を見る誰かも概念上で作れません。
その中心点がなくなる時、見るものと経験との境目がなく、ダイレクトにあるがあるだけという明らかさが、見抜かれるんです。
最初っから、中心なんてあるはずもなかったという明らかさなんです。
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