Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

わかってしまうというワナ【悟り】

f:id:takuteto:20191106185708j:plain

おはようございます。
タクさんでございやす!
今日も来て頂いてありがとうございます。

そうそう、最近、ツイッターの方では、
なんてことのない質問にお答えする「質問箱」をやって遊んでおります。
ガチな深い質問に関しては、セッションとか、セッションを受けて頂いた方には、
メールなどで無制限にお答させて頂いていますが、よかったらツイッターの方をフォローして頂いて、気楽なオモシロ質問で遊びましょう。

twitter.com

さてさて、
このブログに来ていただける方は、ある程度、探求をされて来た方が多いみたいです。
というのも、そもそもは、いわゆる一瞥なり見性なりの体験をした人向けに書き始めたという部分もあるので、あまり探求したことがないと、引っかからない内容だという部分もあるのかもしれません。

そもそも僕自身が体験の後にかなり迷った経験がありましてねー。

巷では、体験があればゴール!
ってなニュアンスの内容が多かったりすると思うんですよね。
でも、全然ゴールちゃうやんっ!って感じる方もおられるんじゃないでしょうか?
そうなった場合、ちょっとややこしいことになるんですが、
この辺のことについて、今は知りませんが以前は情報が少なかったんです。

なので、ここをテーマに書き出したんですが、
最近は、単に心の話などにもテーマの範囲を広げつつあります。
非二元と心の話は一見矛盾するところもあったりしますが、
まーこの辺は、読んでファッと緩む感じや、おもろいっ!と思った部分だけ
受け取ってもらえれば良いなぁ〜。
と思っております。

さてさて、
いわゆる体験というものはないけど、長く探求を重ね、
悟りだの非二元だのというテーマについて、
「言われていることの意味はわかるよー」
「でもまだ、腹落ちしないんだよね。」
と言ったことを感じられていたり、
また、体験を通して言われていたことが理解されたんだけど、
「どうにも以前の感覚に戻ってしまって、どうすればあそこにとどまれるの?」
という風になった方も多いんじゃないかな?
と思います。

今日はそんな、
いわゆる「わかってしまう」というワナについて書いてみたいと思います。

 

僕らってねー。
聞いたことについては、機能として一応「わかったことフォルダ」みたいなものに
入れちゃうんですよね。
聞いたことについて僕らは一応の納得をしてしまうんです。
なので、
言われていることの意味はわかる。
「つまりこういうことだよね」という公式を作り上げてしまうんです。

でもこれがわかっても何も変わらない。
ツラいこととか不安な心がここに残っているような気がするので、
次は
「まだ腹落ちしない。」
といった感じになるわけです。
すると、作り上げた「つまりこういうことだよね」という公式は間違っているということになる。
と結論づけちゃうんです。

すると、「正しい公式はどこにあるのか?どこが間違っているのか?」を探求することになるんですよねー。
でも、どの本を開いても、誰に聞いても言い回しは違うけど同じことを言っているように感じたりしてねー。
「ますますわからんっ!」てなったりしてね。

でも、一度作った公式はもう間違っていた。効かなかった!
って思っちゃっているので、
一度聞いた内容に関しては興味を持てなくなっちゃったりするわけです。

そして、何が違うのかわからんっ!ってグルグルしちゃうんです。

ま、これは一つのパターンなので、細かいところは個々人で色々なんでしょうけどね。

なので、わかってしまったらあかんのです。
わからんままでいるのが良いんですよね。

「腹落ちしない!」って思っている主な理由は、何も変わらず、あいかわらず以前のままであり楽になっていない。
という現状があるからなんだと思います。

つまり、まだ不安が起こったり、まだ迷いが起こるからですよねぇ。
これってね。
この不安や迷いが起こらなくなることがゴールだという設定をしてしまっているんです。

なんていうか、不安がなくなったらゴールという新たなルールを作り上げちゃってるんですよね。

そして、まんまとルールに乗っかっちゃってるんです。

この話は、ルールをルールとして見抜くことですのでね。
ルールに乗っかっちゃったなら、そのルールに沿ってゲームは始まってしまうんですよね。

僕らは感じたことをあれこれ言葉で自分に説明したがります。
この説明がそのまんまルールを作り上げてしまっているんです。

どうしても追求したいという衝動が起こって来たりするかもしれませんが、
ここはぐっと我慢して、わからんままであってみるんです。

すると、「それじゃあなんの進歩もないゾォー!」
ってね。
ルールに誘い込む声が断続的に起こってくるかもしれません。

ここでもぐっと我慢してわからんままに在ってみたら良いんです。

すると今度は、「つまりこういうことかな?」と説明を加えたがる衝動が出てくることでしょう。

ここもぐっと我慢してわからんままに在ってみるんです。

えー!
もしかしたら、これってなんの説明もいらんのんじゃないのん!!
ってなことがあらわになって来てくれたらめっけもんです。

そうなんです。
説明なんてものは、いらないし、いもしない「自分」を納得させなきゃならないことでもないんです。

すると納得したがっていた「自分」もまた、説明によって構築されているものに過ぎなかったことが明らかになるかもしれません♪

 

takuteto.hatenablog.com