Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

理由探しと探求の旅

f:id:takuteto:20210203183225j:plain

はじめに

はい。
おはようございます。
歴史好きのタクさんです。

まー、歴史ってねー。
基本的に戦争史と言っても良いんじゃないか?
というくらい、
歴史と戦争って切っても切り離せない関係性があったりするんですよね。

大体の有名な歴史書というのは、戦争の記述だったりしますもんねー。

三国志しかり、史記や春秋といった歴史書も戦争の話題が大半です。

でね。
戦争というのは、必ず大義名分が必要なんですよね。
これがないと、人はついてこないんです。

なので、どのような大義名分を掲げるか?
というのが、勝敗の大きなファクターの一つになるんですよね。

日本の歴史でも錦の御旗を掲げたもの勝ち!みたいなところがありますからねー。
そこに楯突くものは朝敵になってしまいますもんね。

ま、それくらい大義名分というのは大事だったりしたわけです。

大義名分というのは、なにか?というと、まーいわゆる理由です。

この理由に共感できないと、人ってついてこないんですよねー。

会社でも、企業理念ってありますよね。
だいたいの会社もこの理念というものを作るわけですが、
これも、理由ですよね。

理由があって初めて、人は共感し、ついてきてくれるっつーわけですな。

これって、つまるところ、僕らは理由というものをかなり重要視しているということにもなりますねー。

 

僕らは理由に縛られがち。

なぜ僕らは理由というものをそんなに重要視しているのか?
といいますとねー。
全てのことには理由がある!と思ってるからなんですよね。
そして、理由に対して結果がかえってくる。
みたいなね。
そんな、ある種の信仰に近い思いも持っていたりするんです。

だから僕らは理由というものに縛られがちなんです。

誰かが何かをするのにも、理由があるからだ!
ってねー。
そんな思い込みって結構根強いんです。

何にでも理由があるというのは錯覚

でもねー。理由があって何かが起こるってわけじゃないんですよねー。
理由というのは、解釈するときに使うものですのでね。
起こったことに対しても色々と変わるんですよ。

雷が鳴った!というのも、今は静電気が理由ということになっていますが、古代ギリシアではゼウスの怒りが理由となっていたんです。

昔の人が神を信じていたのは、科学を知らなくて無知だったから、信仰に頼っていたんだだー。
ってねー。思うかもしれませんが、神も科学も同じ信仰なんですよね。

そして、理由というのは、あくまでも解釈のツールのようなものであって、
それは、他の人と共有したり共感したりするときに使うツールのようなものです。
ようなものと言ったのは、実際には存在しないものだからです。

ルールを共有しないと一緒にサッカーができないというのと同じようなことで、
理由が共有されることで、ルールが明らかになり、ストーリーが組み立てられやすくなります。
そして、僕らはストーリーが見えると、それでわかった!なるほど!ってなるんですよね。
でもそれは、ストーリーであって真実ではないんです。
何にでも理由があるという思い込みも、ストーリーの上だけでそうなっているように見えているだけなんですね。

何かをするのに理由はいらない

だからね。
実は理由があってことが起こるわけではなく、ただ起こっていることをストーリーに仕立て上げるときに理由が使われるだけであってね。
僕らは、理由に縛られる必要性というのは、本来はないんです。
ストーリーの中でだけ、必要ということにしているだけなんです。

理由はあくまでもストーリーを彩るツールです。
それはスパイスのようなものなんですよねー。

つまり僕らは理由に縛られる必要はないんです。

何かをするのに理由を探さなくても良いんです。

そして、全てである「それ」を知るのにも理由を探さなくても良いんです。

僕らは理由を探すことから探求へと入っていくんですよね。

僕らはなぜ生きているのか?
どこからきて、どこに向かおうとしているのか?

この問いに理由もなければ答えもないんです。

もしあるとしたら、それは本質的なものではなくスパイス的なものなんです。

 

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!