Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

在るのはダイレクトさだけである。

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はじめに

ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

まー僕らはねー。
なんていうか、不完全であるっていうね。
そんな催眠術にかかっているのかもしれませんね。

だから、何かをしようとするからには、その不完全さを埋めることを期待するわけですな。
なので、何をどのように埋めたら良いのか?
って考えがちなんです。

悟りだとか非二元だとかね。
これは、何かしらを得ることではありませんし、不完全さを完全さに変えるものでもありません。
知らないことを知ることでもないんですよねー。

だから、悟りを得た人なんて人は、存在しておりません。

これはねー。
知る以前の「知」なんです。

だから、知ろうとしちゃうと途端に見失ってしまうんですよね。

欲とは、何かをつかもうという衝動です。
この衝動を制御するでもなく、この衝動に頼るでもなくただ在ってみるってことなんですねー。

 

欲の衝動

欲の衝動は、つまらないものをみることはできません。
あって当たり前のものについても、それを掴み取ることはできないんです。

空気を普段意識しないのとちょっと似てるかなー。

すでに足りているものについて意識することって、なかなかできないんですよね。

だから、究極のなんでもないもの。
これは、欲の衝動からすると、とてつもなく退屈で、とてつもなくどうでも良いものなんです。

なので、どうしても「なんでもないもの」を掴み取ることはできないんですねー。

この究極のなんでもないもの。
これこそが、全てなんです。

なんでもないものだから、時間もないですし、個人もいません。
起こっていることでもなければ、気づくことですらありません。

一切の分断がありませんから、説明のしようもないんですね。

それは満ち溢れている

でも、それは全てですので、満ち溢れています。

なんでもないものを思考が捉えようとすると、止まっている無機質なイメージを持ちがちですが、そうではありません。

実は思考が捉えているものこそ、止まっているものなんです。
なぜなら、常に満ち溢れていて、動いているものは思考では捉えられないんですよね。

だから、分断し、名前をつけ、止まったものとしてパッケージングされてしまうんです。

時間というのも実際には存在していませんが、動いているものをパッケージングする際に使われる一つの概念なんですよね。

僕らは何かをつかもうとすればするほど分断する

だから、つかもうとすればするほどに見失われてしまうんです。
欲の衝動。それは何かをつかもうとする衝動です。
そして、何かをつかもうとする衝動は、何かを分離し整理してパッケージングしようとする働きでもあるんです。

「つまり、こういうこと?」
というパッケージになんとかはめ込もうとするんです。

そうやって、ある種、見かけの分離の世界観を作り上げるわけですね。

この世界観は共有されることによって、より現実味を帯びてくるわけです。

この分離の世界観は、ある種の催眠のようなものでございます。

あらゆる思い込みはすべてこの催眠の中にあるわけですねー。

この話はこの催眠からの目覚めの話なんですが、誰かが何かから目覚めるということではありません。

分離やパッケージングを通さずに、生の感覚にダイレクトに在るということなんです。
在るのはこのダイレクトさだけなんです。

これこそが「生」の躍動なんですねー。

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