Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ハンドルから手を離すことで、自動運転だったことに気づく

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非二元を学ぶ

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

結局ねー。
非二元を学んでも、日常は変わらずにあるわけですし、
思考だって起こってくるわけですし、
だったら、意味ないジャーン。
結局何もできないですし。

的な質問をいただきました。

というわけで、
今日はこの辺について書いていきたいと思います。

この手の質問はよくいただきます。
なので言っておきますが、

まず、
このご質問は、全くその通りでございまして、
非二元は学んでも意味はありません。

そして、何もできないじゃん!というのも全くその通りでございまして、
しなくて良いんです。

非二元については、むしろ、学ばないほうが良いんじゃないか?
とすら思います。

もし、学んでしまっている非二元があるのだとしたら、
これは一切捨ててしまった方が良いかもなんです。

というのもねー。
非二元が学びになってしまったのだとしたら、
もうそれは、非二元という名前の学問ですよね。
そして、学問は二元ですので、非二元ではありません。

 

非二元的な考え方

非二元的な考え方についての質問もね。
良くいただくんですけどねー。

なんだろ?
これって、考え方じゃないんですよね。
こう考えたら良いよ!って話じゃないんです。

ま〜僕らって学習クセってのがついちゃってますからねー。
何かをどうにかするには、その方法を学ばなければ!
ってなっちゃうんですよね。

だからねー。どう考えれば良いんだろう?
ってなっちゃうんです。

より良くなるという話ではありません

でもこの話って、こう考えれば、より良くなるよ!
って話じゃありませんからねー。
そもそも、僕らは常に何かの考えに依存しなくても良いんだよー!
っていうメッセージなんです。
ですが、どうしても目の前の現実というものを僕らは、考えで理解しちゃったりするからねー。
そして、考えで理解するということは、意味をつけるということにもなります。

そして、この意味を良いものにしていかないと、どうにもならん!
っていう結論になっちゃうんですよねー。

だから、意味がないことは、とても虚しく感じてしまうんです。

僕らの不安や苦しみや虚しさ。
これらも全て、考えによって付与された意味がつまらないものであるとき。
そして、このつまらない意味が自分であるというときに感じるんです。

そういうの、もう一切合切置いておきましょう。今だけで良いから

この考えの世界から離れるとき。
僕らは一切の考えが及ばない世界を一瞥するんです。
良くなるとか悪くなるとか、そんなものを超越した世界。
意味があるとかないとか、そんなものを超越した世界です。

それは、一切の考えを置いておいたときに現れる世界です。

これは、運転席のハンドルから手を離すのに似ています。
なので、結構怖いんですよね。

今までは、どうこのハンドルをうまく操作していくか?
そして、どの道を進めば良いのか?
そんなことを常に考えながらねー。
ハンドル操作を誤ると、大変なことになるというプレッシャーとともに、
そのハンドルを握っていたんです。

これを手放したとき、
「へ?これって、自動運転やったん?」
ということに気づくんですよねー。

だから、今だけ手を離してみる。
そんな感じで試してみたら良いと思います。
どう考えれば良いのか?どう捉えれば良いのか?
そういうことから一切、手を離してみるんです。

そのおぼつかなさの中にただ在ってみるんです。

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