Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

理解では追いつけないけど理解しなきゃわかる話

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はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

まーしかし、この話のジレンマとしてはねー。
もうすでに、ゴールにいるということなんですよね。

トラック一周のレースなら、スタート地点がもうゴールですよね。
ゴールにいないのは、ゴールに向かっている時だけなんです。

ゴールに向かわなければ、今、あなたがいるココがもうゴールなんです。

ただトラックレースと違うのは、どこにいてもここがゴールというところですかね。

スタートとゴールが一緒であるというのは、
もうスタートもゴールもないということでもあるんですけどね。

この辺が、この話の皮肉な部分だったりしますよねー。

だから、ああでもない。こうでもない。と探求している間は
このゴールにはたどり着けません。
たどり着いているのにたどり着けないんです。

探求を捨ててしまえば、もうここがコレです。

とはいえね。
じゃあ何もするなと言われても、それだとなーんにも始まらない。
って感じちゃうのもこれまた人情なわけでしてね。

もう、どうしたらいいのよー!
ってことなんですよねー。

 

何かを目指さないこと。

何かを目指してもダメ。
だからといって、目指さないと始まらない。
ではどうしたらいいのよ!
って話なんですが、
もうここが既にゴールであるのなら、そのことを見て確かめることしかできることはないんです。

探求をやめればいいよ!
っていう人もいるかもしれませんが、
それは違いましてねー。

何かをやるでもなく、やめるのでもないんです。

探求の衝動は衝動として起こるのだとしたら、それも含めて、もうゴールなんです。

あなたはどこにも向かっていない

どこかに向かうことをやめるということともちょっと違ってね。
そもそも、どこにも向かっていなかったことを知るということなんですよね。
そのことを見てみるんです。

僕らは、そもそもどこへも向かえません。
つねに、今ここにしかありません。

だから、どこへも向かえないんです。

「え!だってさっきスーパーに行ったよ」
って思うかもしれませんけどねー。

どこにいようと、ここが今ここであって、それ以外のどこかは存在していないんです。

「えー!なんでやねん!ブラジルの友人に電話したらちゃんと繋がるわい!」
って思うかもしれませんけどねー。
それもまた、今、ここで起こっているんですよね。

理解では追いつけないけど理解しなきゃわかる話

ただ、この辺のことは思考の理解では追いつけません。
それよりも理解をいったん置いておいてみるしかないんです。
理解をおいたなら、全てが理解されるんです。
あるのは、このなんでもないコレだけなんです。
そして、それがもう全てなんです。

えー!なんで理解で全てがわかる気がしてたんだろ!
ってね。
気づくわけですねー。
もうそれって、ガッハッハ!って笑うしかないんですよね。

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