Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

これでも良いし、あれでも良い。

f:id:takuteto:20200828012115j:plain

はじめに

へい。
おはようございます。
タクさんです。

皆さんご機嫌でいらっしゃいますでしょうか?

ご機嫌であろうとなかろうと、どちらもまた良しですね。

僕らは普段、いろんなことを見たり聞いたりしますよね。
そして、それを事実として受け止めちゃったりします。

ですが、それらは全て見たり聞いたりしたものであり、
それ以上でもそれ以下でもないんですよね。

見たり聞いたりしたもの、それは事実というよりは、
見たり聞いたりしたもの。
なんです。

これを事実にすると、あなたの事実は、元々の真実とは別のものとなってしまいます。

見たり聞いたりしたものは、どこまでいっても見たり聞いたりしたものですので、
それを事実と書き換えちゃうことで、事実がよくわからないものになってしまうんですよねー。

この辺りから、もしかしたら、この世には正解と不正解があるのではないか?
みたいな錯覚も生まれてきます。

 

正解と間違いというものもありません。

「他所の教えと、ワタシの教えは違いますよー!」
「他所の教えは全部忘れてくださいねー!」
「書物はみんな捨ててくださいねー!」
「そして、ワタシの教えをやってくださいねー!」
「ワタシのイベントにきてくださいねー!」
的な宣伝は、今も昔も随所で見受けられますが、
これって、正解と間違いを誘導させておりますからね。

こっちが正しい!あっちが間違い。
これが錯覚ですのでね。

本を捨てるなら、もうその先生ごと全部捨ててあげれば良いんです。
すると正解も間違いもなくなりますのでね。

もちろん。僕の言ってることも正解ではありません。
どれが正解なんだ?とかありませんのでね。

あーじゃない、こーじゃないというものはないんです。
見たり聞いたりしたことは見たり聞いたりしたことです。
体験したことは体験したことです。
それらが真実だということではありません。
だから、全部違う〜とも言えますが、
だったら、正解がどこかにあるのかというとそれもありません。

なので、
それはそう聞いたことなんだねー。
そういう思い込みだよねーってね。
迎え入れてあげたら良いわけです。

正解なのか間違いなのか?この暗示に従わなくても良いんです。
この二者択一の考えもまた錯覚です。
ここに乗っからせようと誘導するがいわゆる広告の手法な訳です。

正解か間違いか?ではなく、オモロイかオモロクないか?で良いんです。

それ以上でもそれ以下でもない

限定されたものはありません。
それは、水と呼んでいるものは、水と呼んでいるもの。
イスと呼んでいるものは、イスと呼んでいるもの。

それ以上でも、それ以下でもないということなんですよね。
単に何かを、そう呼んでいるだけです。

そして、そうやって限定されたものというのは、
あくまでも、そのお話の中にしか存在してません。
そして、お話しというのはそもそも存在とは別物でもあります。

僕らは言葉で仮想現実を作ります。
ですが、仮想現実は仮想現実であり、それ以上でもそれ以下でもないんですねー。
そして、言葉は仮想現実しか作れません。
そういうもんなんです。

これで良いし、あれでも良い

教えにハマるのも、思考と一体化するのも、探求をするのも、
そうなるのなら、それで良いんです。
あなたは、あなたのままで良いわけです。
そして、正解もありません。真実はいつも静寂なんです。
これがいけない、あれがいけないとやればやるほど探求にハマるわけなんですけどね。
それが起こってるなら、それを愛でて迎え入れてあげれば良いんです。

これで良いし、あれで良いんですよね。

だから僕は、そんなあなたに、えらいねー!と言ってあげたいです。
何をしてても、あんたはえらい!

 

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!