Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

幸せになるんじゃなくて、幸せに戻る。

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はーい。
おはようございます。

タクさんです。

しかしまぁ、なんですねぇ〜。
ちょっと、桂小枝さんみたいなこと言っちゃいましたが、
結局のところ、僕らって幸せを求めてるわけなんですよね。

でね。
この幸せについてなんですが、
もしかしたら、僕らはこの幸せについてちょっとした勘違いをしているのかもしれません。
そして、この勘違いに気づいたら、ちゃんと幸せになれるのかもしれない。

今日は、そんなことについて書いてみたいと思います。

 

さて、僕らは幸せをね。
どこか、満足感とごっちゃにしちゃってるところがあると思うんですよねー。

ほんとはね、僕らと全く離れたこともない幸せがここにあるんですよね。
なので、幸せになるというよりは、幸せに戻るというのが正解なんです。

僕らはイメージによって限定された枠に自由を奪われるとき、
不足感を感じます。

この限定された枠こそが分離によって引き起こされるイメージなんです。

分離はありとあらゆる条件によって起こります。

そんな中、作られた条件を満たすことが満足感となるわけですが、
そこで僕らは、この満足感こそが幸せなんだという錯覚に陥るというわけなんですよねー。

でね。
この錯覚があるから、

この満足感を得るための条件を自ら生み出し、
そして、自らが作り上げた条件を満たせないことに対する不安や不足感もまた、
生み出し続けちゃうというわけなんです。

僕らは何かをつかむ時には、便宜上、分離をさせないと掴めませんよね。
私とあなた。
あれとこれ。
コインの表にコインの裏。
空と雲に、大地と宇宙。

分離をさせないと、何でもないもののままなので、
僕らはイメージとして掴み取ることができないわけです。

ただ、この掴み取りは、イメージをするための便宜上のものでしかないんです。

僕らのイメージの中のストーリーには、何ら真実性があるわけではありません。
イメージの中で何かしらの条件を解決するまでもなく、すでに全ては完璧なんです。

この完璧さの中に、幸せもあるんです。

そんな幸せの中、イメージ上の不幸を掴み取っているだけなんですよね。

満足をした時は、一瞬テンションが上がった後、掴み取っていた条件は満足したことによって消え失せます。

この条件が消え失せた瞬間の安心感と一瞬上がるテンション。
これを満足感として捉えられているわけですが、

この満足感の正体であるテンションは、一過性のものであり、
テンションが静まった後に残る平安、安心感。
これこそが幸せの正体であり、
この幸せは条件からの解放によって起こるんです。

この条件の中に時間や私という概念もあったりするわけですが、
私という概念もまた、一つの思考なんですよねー。

ま、そういうわけでして、条件がなきゃすでに幸せだということです。
不幸とは自らが掴み取った条件によって引き起こされているだけなんですねー。

この条件を真に受けている時、僕らは深刻に物事を考え、
この考えは、物事に枠を作り上げ、
そして僕らはこの枠によって不自由感を感じるわけです。

いいですか。
その枠は空想によって作られたものですからね!!

思考の内容(ストーリー)の中に不自由や不幸があるわけじゃありません。
不幸は深刻さの中にあるんです。

思考は空想だといわれたところで、
「そうはいっても、嫌なことはやらなきゃいけないし、、、」
なんて思うこともあると思います。

この嫌なことの中に不幸があるんじゃなくて、
この思考によって起こる深刻さのなかに不幸があるんです。

そりゃ、好き嫌いも良いも嫌もなくなったりはしませんが、
嫌いも嫌もホントはカワイイんです!

嫌をなんか重たい深刻さと一緒くたにするという捉え違いをしてただけなんですよね。

僕らから自由を奪う枠は、まさに空想でしかなく、僕らの今も未来も完全な未知なんです。

この未知こそが真実であるということに目覚める時、僕らは既知の枠という不幸から解き放たれるんです。