Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【悟りと気づき】気づきと経験が溶け合うとき

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ふぇーい。
いやぁ〜。
どうにも反射神経が衰えたのか、
それとも錆びついているのか。

アクションゲームが徐々に苦手になってきた感のあるタクさんです。

おはようございます。

まあそんなわけで、スターウォーズのゲームに四苦八苦しておるわけですが、
みなさんいかがお過ごしでしょうか?

スターウォーズで有名なセリフで、
「フォースと共にあらんことを」
っていう、まあ合言葉のような言葉があるんですが、
ま、このセリフはちょっと好きなんですよね。

映画の中でフォースとはジェダイと呼ばれる人たちが使う超能力のようなものなんですが、
根元の力のようなものでもあるんですよね。

でもこの力を、自分の実力だー!といったように、自己顕示欲や他を征服しようとする欲に使おうとすると、途端にこの力に飲み込まれちゃってダークサイドに引き込まれちゃう。

みたいなね。
そんな側面もあったりするわけですが、
ま、映画の設定は置いておいて、
根元の力。
すなわち根元の自分と共にある。

つまりは、自分のワクワク。自分のノリノリ。
これと共にあればいいよ〜。

ってなニュアンスが感じられて、
「あなたはあなたのワクワクを目一杯表現してね!」
といった表現に感じるんですよね。
「フォースと共にあらんことを」が。

ま、そういう意味では、「フォースと共にあらんことを」
という挨拶はなかなか良いなぁ〜。

 

根元のワクワクとかノリノリとか言われても、
よくわかんないです〜。
なんて声はよくいただきます。

それについては、
一言で言うと、わかってるとして掴んでいるもの。
これらをぜーんぶ一旦おいておく。
ありとあらゆる理由になっているものも全部おいておく。

すると、最初っからここにあってずっとここにあるもの。
これが残りますよねぇ。

それが「ソレ」なんです。

着込んだ服を脱いでいくと、自分の体が残ると言うのに似ていますが、
この服にあたるのが思い込みによるイメージだというわけです。

イメージは物理的なものではなく際限なく増やせますし、瞬時に生産することも可能なので、おいておこうとしても、スッと隙間にうまく入り込んだりして、
これまたなかなか厄介なものでもあるんですけどね。

でもやっぱり、できることといえば、観ることだけしかありません。
僕らはありとあらゆる経験を常にしています。
これはつまり、観照者でもあるということなんです。

気づいている。観ている。からこそ経験が起こっていると言うわけです。

できることは観ることだけだと言いましたが、この観照者としての自分は、
すでにここにいるんです。

観るでもなく、すでに観ていたんです。

観ようとする意思もまた観ていたし、その意思の奥にある衝動もまた観ていたし、
あらゆる経験。この経験も観ていたんです。

経験は個人に起こるものではなく、個人もまた一つの経験だったことも観ていたからこそ、
その経験が起こっていたとも言えるんですよねー。

全てを観ていたということに気づいてくると、今度はこの観照者と気づきの対象もまた分かれてすらいないことが発見されるんです。

その発見は、あらゆる思考や分離を溶かし、
観照と気づきは溶け合い、
全てへと戻るんですよねん。

ここに落ち着くことで、あらゆる深刻さは許し溶け合うんです。

 

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