はじめに
はい。
どうもおはようございます。
うちの水道管が壊れて漏水してて、
クソ高い水道代と水道管の修理費がいくらになるのか、、、と、
怖くてオロオロしていたタクさんです。
みなさん。ごきげんいかがでしょうか?
オロオロしたり怖がったりすることってね。
やっぱり毛嫌いしがちじゃないですか。
でもね。
これはこれで、良いものっていうかね〜。
なんていうか味なんですよね。
ニガさがあって、はじめて甘さが引き立つってことですのでね。
だから、あって良いんですよね。
あって良いってなってくると、ニガさの味わいもまた変わってくると言うもんです。
ほら、
通ぶってる人って魚のハラワタが旨い!とか言うじゃないですか。
あれと似たような感じですよ。
どんな味もいずれは喉元を通り過ぎていきます。
そして、その味は消えていくんですよね。
どんな味も永遠には続いてはくれないんです。
だからこそ、味わい深いものなんですよね。
この味わいが体験できるうちに、色々と味わっておきたいものですね。
観る主体はいない
さてさて僕らってね、なんていうか常に観てますよね。
よくね。
観照っていいますが、僕らは観ることくらいしか出来ないんですが、
もっというと、観ることすら出来ないんですよね。
やってないんです。
すでにもう観てるんですよね。
そして、そこに主体はないんです。
でもね。
僕らは観ようとすると、ついつい解釈の方を観ちゃうんですよね〜。
「私は今、不快感を感じている。
なぜなら、あんなことがあってこんなことがあって、あんなひどいこと言われて、
そういえば、来月の支払いがこんなにあってやばいし、このままだと貯金がなくなってしまうし、あー、あの頃は良かったなぁ〜!
ウンヌンカンヌン、ウンヌンカンヌン・・・。」
ってな感じでね。
解釈を読むと観るはちょっと違うんよ
でもこれだと、ただストーリーを追いかけているだけなんですよね。
ものすごーく近視眼的になってるんですよ。
そうすると、解釈ばっかりを読むことになってしまうんです。
この解釈読みにハマっちゃうと、延々とそれを続けることになってしまうんですよね〜。
なので、観るというのは解釈を読むことじゃないんです。
ただ観るんです。
ただ観るとは、変な話、観ることですら無いんですよね。
だってもうすでに観ているんですもん。
ただ在るにリラックスする
ま、とはいえね。
まずは解釈を読んでしまいがちなんですが、この解釈は一旦置いておいて、
この視点をぐぐーっと引いていくとね。
このストーリーを観ている自分っていうのも観えてくると思うんです。
あ、こうやって解釈を読んでいる自分っていうのが観えてくると思うんですよね。
いわば、対象を観るんじゃなくて、対象から主体の方に視線を移してみるって感じでしょうか。
じゃあなんと、この主体だと思っていた自分というものが観えてしまうわけです。
ありゃまー。主体を観ることができるんだ!ってなるんですけどね。
じゃあ、この自分を観ているのは誰だい?ってはなしなんですよね。
ここは注意深く観ないと、自分を見てるのも自分だ〜ってなっちゃうんですけどね。
これは、主体は自分であるっていう解釈がはいっちゃってるから、そうみえるわけでして、実際は自分ではないんです。
なんでも無いものが、ただ観ているんです。
これが分かったと同時に、主体と客体の分離が消えていくんですよね〜。
そして、ただ在るになるんです。
でね。
このただ在るにリラックスしてみるんです。
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