Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分のアホさを愛するということ

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はい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさん今日もアホやってますか?
僕は相変わらずアホをやっております。

踊る阿呆に見る阿呆。
ってねー。
僕らみんな同じアホなわけです。
だったらもうこれは悪いことではないですよね。
だったらもう愛してあげるしかないわけです。

みなさんもどうか自分のアホを愛してあげてください。

やりがちなのは自分のアホさを自分の足りなさとして認識することです。
実はそれってとっても非常にもったいないことなんですよねー。
今日はそんな自分のアホさを愛そうぜっ!ってなことについて書いてみたいと思います。

 

 

みんなができることには価値がない。

自分のアホさってね。どうしてもそのマイナス要素の方に注目して、
自分は何かが足りないんだ。
みたいなね。
そんな風に思っちゃうものなんですが、それって錯覚なんです。
そもそも考えてみたらわかると思うんですが、
みんなができること。
これってねぇ。どう思います?
価値があると思いますか??
だって、みーんなができるんですよ?そんなのに誰も価値を感じないですよねぇ。
サッカー選手のプレイレベルがみんなができるレベルだったら誰もチケット買ってまで応援しませんよね。
そうなんです。みんなができること。
これって価値がないんです。

それ、できる必要ある??ってことなんです。

できるとできないは表裏一体になっている。

そして、できることの裏には必ずできないことが隠れています。
例えば、瞬時に物事をおおよそ理解することができる人は、じっくりと物事を深く考えることが苦手だということになります。
テキパキしている人は、ダラダラすることが苦手です。
時間をきっかり守る人は、罪悪感なしに遅刻することができません。
ダラダラするからこそ、何かに一点集中するパワーがあるかもしれませんし、
時間にとらわれず大きなクリエイティブができるかもしれないんです。
亀は甲羅が重いので素早く歩けないかもしれませんが、身を守るのは得意!
みたいなもんでね。
「できる」の裏には「できない」があるし、「できない」の裏には「できる」があるんです。
つまり、みんなはできるのに、自分だけできない事っていうのは、その裏に
あなたの尖った部分が隠れているかもしれないんですよねー。
※ちなみにうちで飼っているカメは餌を前にするとダッシュで走ってきますので、結構素早いですが・・・。

足りなさは錯覚

足りなさを埋めたとしてもね。価値もない、なんてことない人間になるだけです。
しかもそんなことをしたら、あなたらしさを押しつぶすことにもなっちゃうわけです。
なので、足りないを埋めようとするのは、しんどいんですよね。
これは足りないからしんどいのではなく、自分らしさを押しつぶそうとするからしんどいんです。
そもそも自分はだめだ。自分はなにかが足りないという思いの大本には、そういう判断が起こるための条件があるはずです。
その条件というのは、例えば、
「こうでなきゃダメ」とか「こうあるべき」という思い込みなんですが、
この思い込み自体が錯覚なんです。
足りないの大本である条件自体が錯覚なんだから当然、足りないという思いも錯覚なんです。
この錯覚に恐れているのはまるで蜃気楼を恐れているようなものなのかもしれませんね。

自分のアホさはあなたの個性であり長所である。

できないのウラにはできるがある。
みんなができることをできないからこその長所があるわけです。
これはあなたの個性であり、恩寵でもあるんです。
これをギュッとふさぎ込むのはあなた自身をあなたが鞭打つ事になっちゃうんですよね。
なので、まずは自分のアホさ。これを受け入れなきゃなりません。
それには、アホを迎え入れ、許すことから始めてみればいいんです。

アホを許すことで見える世界が変わる

自分のアホさを許すこと。
実は自分のアホさはすでに許されています。許していないのは、
元々は存在しない条件による単なる反応なんです。
ちょっと表現がややこしいですね。
簡単に言うと、自分を許していないのは自分だけということです。
本当は許されていて、さらには愛でられるべき愛しい存在なんです。
僕らは、世界を掴み取る時、自分なりのフィルターを通して掴み取ります。
もし、自分のアホさを許すことができたなら、このフィルターの色はガラッと変わります。
自分を許すことで、自分の中にいる他人もまた許されるんです。
みんなアホなんです。
今まで自分に辛く当たった人もまたアホだったことを知ることになるんです。

世界を変えるのではなく自分を変えるのだ!

これはラマナ・マハルシさんのお言葉ですが、正にそのとおりで、

世界がどうとか、あの人がどうとか、社会がどうとか。

そんなものはどうでも良いことです。
どうせ、架空の色眼鏡で見た自分の錯覚にすぎないんです。

それよりも徹底的に自分の面倒を見ることです。
自分の面倒を見るとは言い換えると、自分のアホさを認めること。
そして前のめりで迎え入れることです。
そうすると自然と自身を愛でることになります。
なぜなら本来は愛おしい表現であったことを知るからなんです。
この時、自分はなんの枠にも当てはまらない広大な全てであることもまた知ることになるんです。
自分を迎え入れ愛でることで、自分を締め付けていた枠は外れます。
そして、「自分」すら枠の一つであったことを知るんです。

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