Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

幸せな人と不幸せな人

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ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

なんのために生きているんだろう?
ってねぇ。
考えることもそりゃーありますよねぇ。

これが見つかれば、何かとってもスッキリしますもんねぇ。

具体的なことは浮かばないにしても、
基本的に、
「幸せになるため」
だということは皆さん一緒だと思います。

ですが、この幸せというのには、そもそも定義はないんですよね。

本人が幸せだわ!と思えば、それが幸せです。
だからこの幸せの形というのは、なんていうか自由でいいんです。

ですが、この定義がないというのが少し困りものでして、
僕らは子供の頃から、幸せの定義は人それぞれなんだろうけど、
それは子供には見つかりっこないんだから、
まずはちゃんと勉強して、立派な仕事をして、安定した生活を送れるようになりなさい。
とね。
幸せ定義の押し売りをさせられてきた。
なーんて側面もあるのかもしれません。

 

ま、そんなわけでねー。
もしかしたら、物心付く前から刷り込まれてきた
幸せの定義のせいでねー、
自身の幸せを見失っちゃうようなことにも、なっちゃってるんじゃないのかなー。
なんて思ったりもするわけです。

押し付けられた定義がたまたま自分に合うものであればそれで良いんですけど、
どうにも合わないという場合には、
いろいろと悩んだり迷ったりしちゃうわけです。

やりたいことがあるけど、それじゃあ幸せにならないかもしれない。
みたいな迷いですね。

刷り込まれた幸せの定義。
このレールに反することは、幸せになれない。
というような錯覚を受け入れちゃってるものだから、
やりたいことをやる場合に、このレールから外れてしまうという不安を感じるんですよね〜。

でも本人が幸せだと思うことって、
やりたいことをやってるときですもんねぇ。

だとしたら、やりたいことをやると不幸になるってのはありえんわけです。

また、やりたいことをやるのに、外の目というのは必要ありません。
わきあがる「やりたい」に満たされていますので、外の評価も気になりませんし、
また、競い合う必要性すら感じられなかったりします。

なので、ここには戦いというのはないんです。

逆にいうと、不幸せというのは、外の評価や押し付けられた観念と、
自分が感じている自分自身との差によって生じる、
「足りない」という思いなんですよね。

なので、やりたいことやってても、そこに外の評価を混ぜちゃうと、
その混ぜた分は不幸せを感じるかもしれません。

やりたいは、完全に自分だけで完結していいんですよねん。
やりたいには、条件も評価も一切必要ないんです。

もしね。
あなたの周りで、やたらとあなたのやりがいに口出ししてくるような人。
やりたいことをやってたら、足を引っ張ってくる人。
そんな人がいるのだとしたら、その人はもしかしたら
今、この時点で不幸を感じているのかもしれません。

不幸を感じている人の場合、他の人も不幸なら、なんとなく安心できるものなんです。

そんなときは、

あー、不幸をやってるんだ〜。
ってね。
思ってあげればいいですが、その不幸に付き合ってあげる必要はありません。

もちろんね。
自分の中のマインドちゃんも、
こんな事やってる場合じゃない!
これにどんな意味があるというんだ!

みたいにね。
言ってくるかもしれませんが、
もちろん、それにも付き合ってあげる必要はないんです。

 

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