ほーい。
おはようございます。
タクさんです。
昨日の記事では、
僕らは、目の前の世界のあらゆることに関して、価値の差をつけて受け取っている。
ということ、
そして、足りないという思い、そのことが許せないという思いが、思いと同化する衝動を起こしている。
ということ、
さらには、この衝動に巻き込まれているときは結構無自覚である。
ということなんかについて書きました。
今日は、その続きとなりまーす。
目の前にあるコップ。
窓の外で吹く風。
それと、あなたが一大事だと思っている思考の認識。
ここに、実際には価値の差はありません。
あなたは、目の前にコップがあることに気づいていますし、
外に吹く風に気づいています。
同様に、起っている思考にも気づいているんですね。
そして、なんでもないものをコップだと呼んでいることにも気づいていますし、
なんでもないものを風と呼び、なんでもないものを思考と呼んでいます。
コップというような物質も、風という現象も、
思考というイメージ世界も実際にはありません。
なんでもないものをなんでもないものと気づいているからこそ、
そして、なんでもないからこそ、そこに意味付けができるんです。
そして、なんでもないものを何かとみなすとき、
自然と分離の概念という大前提が生じます。
コップとみなす時もコップとそれ以外という分離の大前提が生じますし、
外に風が吹いているということにフォーカスされた時も、風とそれ以外という分離の大前提が生じるんです。
そして分離の大前提が生じる時、無意識に私という観念も生じるんですよね。
これが、私というのは実際には存在せず、それは何かを捉える時に便宜上つけられている観念だというわけです。
ちょっとややこしいんですが、
「私はいない」んだ!という言葉を聞いて信じたりしても、これまたなんでもないものを何かとみなすことになっちゃって、そこに私という観念と分離の大前提が生じちゃうんですよねー。
つまり「私はいない」は確かめてみるのは良いけれども、信じるという話ではないんですね。
いるのか?いないのか?なんていう選択肢すら幻想ですのでね。
どっちでもないというのが真相です。
さて、そうやって分離の大前提を利用して僕らは何かを思いとして掴むわけですが、
大概は掴まれてもそのまま消えていきますので、特に問題はありません。
「あー、風が吹いとるわ」と思ったとしても、すぐ後にはその思いは忘れ去られてしまいます。
なんども、「そういえばさっき、風が吹いてたなぁ」と何度も繰り返しそのシーンを再構築することはあまりありません。
ですが、どうしても執着が強いものに対しては、なんどもそのシーンを再構築するんです。
そして、なぜ執着が強くなっているのか?と言いますと、
それは許せていないことがあるからだったりするんですよね。
そして、許せてないの矛先は自分に向けられているんです。
なので、自分で自分に鞭打っているのと同じようなことになっているんですよねー。
そして、その許せていない思いの衝動にも無意識なんです。
なのでね。
まずはその衝動に気づく必要があります。
その気づきを促すワードがね。
「ま、それも良いんじゃないかな?」
というワードなんです。
これを
起ってることに対して、言ってみるんです。
とてもそうは思えなくても、「良いんじゃない?」
って言ってみるんです。
すると、「いいワケないだろ〜!」という衝動が沸き起こってきてくれるんですねー。
そしてこれが自分の中で沸き起こってる衝動だったのかーって、気がつけるんです。
「あーこの衝動に巻き込まれていたのねー」
って気づけるんですよね。
そしてね。
巻き込まれるなら、巻き込まれるのもこれまた一興だよね。
もう巻き込まれちゃおう。それもまた、良いよね。
ってね。
許してあげてみるんです。
えー!それじゃあダメじゃんっ!
っていう思いが起ってきたなら、
それも許してあげるんです。
私を同一化させる衝動のエネルギーは、
許せない!という思いをエサに働いています。
思いは常に働かせてないと存在することはできませんので、
働かせるための餌が常に必要だというわけです。
そのエサが、「許せない!」という思いなんです。
しかも許せないということの内容については特に問われないんですよね。
なんであれ、許せないがあれば、それをエサにするんです。
でも、それが起ってるならそれで良いかー。
ってね。
起ってることを許してあげると、衝動を働かせる原動力が失われていくんですよねー。エサが無くなりますのでね。
衝動を知り、そして、その衝動があることを許してあげる。
つまり、そのまんまにしておいてあげる。
これは別の言い方をすると、スルーをするということにもなります。
するともう、それは問題ではなくなっているんです。
スルーができないなら、それでも良いかーって許してあげるんです。
頭の理解は得られないでしょうか、それで良いんですよねー。
「これで、いいのだ!」
というわけです。
バカボンのパパはえらいんです。
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