Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

くさらない、頑張らない、打席に立つ。「くさらない編」

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はい。
おはようございます。
タクさんです。

まー、それにしても迷惑メールって迷惑ですよね。
迷惑メールを防止するために普通のメールもやり取りスムーズに行かないという
ダブルな迷惑さもありますからね〜。

まあこのあたりがメールというツールの限界なのかもしれません。
電話がすでに時代遅れになったのと同様に、メールも時代遅れになりつつあるのかもしれませんね。
僕も仕事ではslackでやり取りしてますし、
友人とは、facebook、lineでのやり取りでほとんどメールは使わないですもんね〜。

さて、
「クサるんじゃない。頑張るんだ!」
なーんてね。
言われてたりするじゃないですか。

まあ僕も、ホント、クサってたら何も出来ないもんねー。
って思います。

でも、頑張らなくても大丈夫だよ〜。
という言葉もあったりしますよね。

え、頑張らなくてもいいの??このままクサっててもいいの??

でもそれだと何も変わんないし、このままというのも嫌だし、、、。

「もー!!どーしたらいいのぉぉーーー!!」

ってね。
思ったりしますよね〜。

ま、ホントはどっちでもいいんですけどね。
でもどっちでもいいって言っちゃうと、余計にどうしたらええねーん!ってなると思いますので、この辺について書いてみたいと思います。

 

クサってるということは、何もしていないというよりは、
色んな思いに悩まされているということですよね。

思い通りにならない事に悩まされているわけです。

その思い通りにならないことが、後悔となったり、罪悪感となったり、
いろんな形で出てきては僕らをふさぎこませるわけです。

もう終わっとるわー!!
といった思いが次から次へと出てきてはふさぎこませてくるわけですよねー。

クサるな!!
と言われたところで、クサってしまうような考えが次から次へとやってきますし、
これらの考えは、いちいち「ごもっとも」な考えに見えちゃいます。

妙に信憑性があるもんだから、どうしたら良いの〜!がわからなくなってくるわけです。

僕らの思考ってね。
何をしているのかというと、簡単に言うとつじつま合わせです。
既に取り入れた「大前提」に対してつじつま合わせをしているんですよね〜。

ぱっとよくわからないものが目の前に現れたとしたなら、
「これはなんだろう??」
と確かめようとするわけです。

何かしらの反応がおこると、この反応に対して
「これはどういうことだろう?」
と確かめるんですね。

クサってる場合っていうのは、何かしらの大前提を掴み取ってしまっているんです。
そしてこの大前提を補完する考え、答えがどんどんつじつま合わせされていくんですよね〜。

掴み取った大前提は大体は
「こんなことは起こるべきではない」
という大前提となっています。
そして、起こるべきではない最もな理由が再現なしに生産されているんです。
でも、これが生産されたところで、起こるべきではないということの解決にはなりません。

この場合は、
「こんな事が起こるべきではなかった〜!!」
という思いが次から次へと出てくるのと一緒ですからね〜。

そして、次から次へと出てくる思いを聞くたびに
起こるべきではないことが起こった!というショックを受け続けるんです。

これが繰り返されることによってこのショックから抜け出ることができなくなっちゃってるんですね〜。

でも抜け出たいと思うからあれこれと考えちゃうわけですが、
考えれば考えるほど、ショックを再体験することになります。

そしてこのショックを抱えたまま動けなくなっちゃうんですよね。

ショックを再体験するたびに僕らは疲弊しちゃいます。
ぼくらが悩んだりしているときって、イメージ上だけであれこれ考えてるだけじゃなくて、
身体にも結構負担がかかってたりするんです。

ぐっと力が入った緊張状態を続けてしまいますからね〜。
逆に、僕らは思いっきり脱力したまま悩むことって出来ません。

緊張を寝ても覚めても続けていると、かなりのエネルギーを消耗してしまうんです。

こんなの繰り返しているとつかれてふさぎ込んじゃうのもしようがないと言えますよね。

なので、この大前提「起こるべきじゃないこと」を掴み取った状態であれこれと考えても、
答えが見つけようとしても見つからないんです。

あるならとっくに見つかってるはずですしね。

ややこしいのは、
「起こるべきじゃないこと」を掴み取ることによって、
自分を守っているという錯覚です。

実際はそのせいで、自分に何度もムチを打っているというのにね。

でもこの「起こるべきじゃないこと」を手放すのは自分の放棄だ!自分への冒涜だ!
みたいな思いをも掴み取っている場合が結構あるんですよね。

なんでそんな思いを掴み取っているのかな??
って観てみると、その奥には認めたくない自分という思いもあったりするわけです。

なので、一所懸命、自分を守るための機能が働いてくれているということでもあるんです。

ただ、この働きがバグとは言いませんが、ちょっとしたループにハマっちゃっているというわけです。

なのでね。
この大前提ごとね。
今だけでいいから、ごっそりと置いておくことです。

それが起こったことを許せそうなら許してあげたらいいですし、
許せないなら、許せない自分を許してあげたらいいんです。

そもそも「起こるべきじゃないことが起こったー!」
という思いは、あなたが思っている思いじゃありません。

なので、どうするかはその思いに任せておけばいいんです。

この思いは自分を守るために起こってくれている思いでもありますので、
一言、「ありがとねー!そして、よろしくねー」
と声をかけてあげるだけでいいんです。

ほっておくなんてとんでもない!
「起こるべきじゃないこと」を手放すのは自分の放棄だ!自分への冒涜だ!
みたいな思いがあるのだとしたら、
その思いは自分を定義するものじゃないということをちょっと思い出してもらいたいんです。

そもそも自分というのは思考の定義ではめ込まれるものじゃありません。
先立つのは自分ですからねー。

自分があってこそ、思いが出て来ているわけです。

先にあるのはじぶんですので、
この思いに自分を閉じ込める必要性はありません。


というわけで、長くなって来たので今日はこの辺までにして、
「頑張らなくてもいいの??」「打席に立つ??」ということについては、
明日書いてみたいと思います。

 

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