おはようございます。
タクさんです。
さて、いきなりですが、
あなたの命は、身体から発せられているのでしょうか?
それとも、命が身体を生かしているのでしょうか?
これ、
考えてみても、よくわからないですよねぇ?
身体がなくなると、命のともしびも消えてしまうような気がするし、
とは言っても、身体の中に命を発生させる器官やともしびの元があるわけでもないし、、、
これね。
そもそも、どちらでもないんですよ。
身体という命の表現と、命そのもの。
これらは同じものなんです。
吹いている風と、風のエネルギーに違いはないですよね?
分けられません。
描かれた絵とそのキャンパス。
これらは同じものです。
キャンパスは絵、そのものですからね。
そこに境界はありません。
同様に、命は身体そのものであり、身体は命そのものなんです。
だから、命が身体に宿っているわけでもないわけです。
命と身体に境界線はありません。
そして、命の表現は身体だけではありません。
ありとあらゆる全てが命の表現なんです。
空に浮かぶ雲が常に変化をしているのと同様、命の表現も常に変化をしています。
命とは、この表現そのものです。
モノではないんです。
その表現による変化の一部が身体だというわけですが、これは無限にある表現の一部分を切り取ったものに過ぎず、移り変わる雲の一部をあえて身体と表現しているようなものでもあります。
身体と身体以外に境界線はありません。
そして僕らは、命によって表現された一部の身体。というわけでもありません。
分離のない命そのもの。その働き自体が僕らの正体です。
その働きの一部で、何かを整理整頓、分離し、分類して捉えようというアイデアが起こっているだけなんです。
そして、ここで全体である自身を、その分離のアイデアの中心に、想像上で押し込めて、自分と自分以外をイメージで作り上げているんです。
このアイデアが発生している間だけ、「自分」が作り上げられているというわけです。
全体を小さな個別の「自分」という個の中に閉じ込めて、
自分の外側には、大きな世界が拡がっているという世界観を作り上げているんです。
全体性に目覚める時、その世界観がひっくり返るわけですが、それは、閉じ込めていた小さな自分がもともと全体だったということが見抜かれるから、ひっくり返るように感じるだけで、実際に何かがひっくり返る訳ではないんですよね。
そして、当たり前のように、分離して整理整頓しようとする働きも、今まで通り起こりますので、自我やアイデンティティといったような働きを失って、違う何かに目覚めるということでもないんです。
単にそれが働きなんだと見抜かれるだけなんです。
この見抜きの副作用として、深刻さや収縮感が減るということなんです。
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