【はじめに】
ほい。
おはようございます。
タクさんです。
この話の大いなるパラドックスは、
心の平安を願うから、その平安が覆い隠されてしまう。
っていうところなのかもしれませんねー。
ただ、心というのは平安を願うようにできております。
だって、心には自分を守りたいという防衛反応が働きますからね。
危機を感じている時こそ、平安を願うような仕組みになっているんですよねー。
このパラドックスのパズルが解けるとき、
「あー、平安ってめっちゃここに最初からあったんやーん!」
ってなるわけですね。
願うから、ここに無いという錯覚をしてしまう。
そして、
探すから、ここに無いという錯覚をしてしまう。
でも、願ったり探そうとすることは仕組みなのでどうしようもない。
っていうね。
「おい!じゃあどうすることもできないじゃないか!」
って話なんですけどねー。
そうなんです。
どうすることもできないというのが正解だったりするんですよね。
【それに触れたとき】
いわゆる「それ」。
「これ」でもいいですけど。
それに触れたとき、全てはものすごーく新鮮なんだ!
命に古いはなく、全てが新鮮でみずみずしいんだ!
っていうねー。
そういう驚きとともに、
ほんと〜にぜーんぶ許されている。
ということを知るんです。
そして、全てが新鮮で、全てが許されていて、ここに分離がない。
これが全部合わさるから、全ては奇跡であり愛そのものだ!
って表現になるわけなんですが、
これが、ほんと〜のデフォルト。つまり、当たり前なんですよね。
【どうにかしたいという思いはあってもいい】
そして、あらゆる思考って起こってくるもんですが、
どんな思いもちゃんと必然性を持って起こってきているんです。
原因と結果というものは、実在はしておりませんが、思考の中にはちゃんとあるんですよね。
だから、思考の中に分離があるのも必然ですし、
思考の中に「自分」というキャラクターがいるのも必然なんです。
この「自分」を守ろうという働きも、ある種の防衛反応の拡大解釈なんですが、
これもまた必然として起こってるんですよねー。
大雨が降ると、川の水かさが増えるというのと同じです。
これもまた、全て許されておりますし、許せないという思いが起こっていることもまた許されているんです。
【何かをつかもうとするとき】
川の上でボートに乗っているとしますよね。
するとそのボートは自然と川の流れに沿って流れていきます。
そんな中、僕らはあらゆる景色を見ています。
景色は常に移り変わりますが、そんな中、心の中の自我ちゃんという働きは、
この景色をつかもうとするんです。
なぜなら、自我ちゃんは、常に移り変わるものを認識できないからなんですね。
コロコロとかわっちゃうものには、レッテル(名前)を貼ることもできませんしね。
自我ちゃんはレッテルを貼って、意味をつけていかないと物事を認識できません。
だから、その景色を止めようとするわけです。
ときには手で必死に漕いで同じ景色を保とうと頑張るわけですが、
流れにはかなわないんです。
そんな自我ちゃんの働きが止まったとき、
「あ!止まってもイケるじゃん!」
ということを知るんです。
自我ちゃんはちゃんとコントロールされないとえらいことになる!
だから、必死に自我ちゃんを守り高める景色を掴み取ろうとしていたわけですが、
あ、自我ちゃんなしでもイケるんだ!
と知るときに、初めて、自我ちゃんもまた必然の中に起こる一つの働きだったことを知るわけです。
一つの働きと書きましたが、
働きとはエネルギーのようなものですのでね。
数えられるものでもなく、分けられるものでもないということなんですよね。
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