Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「気づき」への気づきと自我ちゃんの話。 02

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さてさて、お早うございます。
タクさんです。

今日は
昨日の続きを進めて行きたいと思います。

人はこのストーリーづくりに長けていること。
そして、その幻想のストーリーを共有できるという能力を持っています。
この能力のおかげで、ここまでの発展を遂げてきたという背景があるんですよね。

なのでこの幻想のストーリーはより大事な現実として認識されてるんです。
そういう本能を持ってると言えるのかもしれません。

そして、ストーリーを形作る意味づけのなかに「自分」という観念も含まれています。
自我ちゃんというのも、意味づけによって生じる観念のひとつなんですよね
観念も意味づけもぜーんぶ置いておくと、そこに残るのはたんに気づいている「気づき」だけです。
この「気づき」に自分という観念をくっつけることで「自分」という存在があたかもあるように感じているんです。
そして、この自分がちゃんと気付いている物事を管理していかなきゃいけないと感じたりしているわけなんです。

そうやって意味づけの中に生き始めるんです。
ま、ほんとはずっと意味づけの中にいるわけじゃなく、結構意味づけから離れてることも多いんですけどねー。
実は意味づけの中にい続けると、しんどくなってきます。

結構無理がありますのでね。

 

なので、あまり長く意味付けの中にどっぷりハマると、ストレスがたまりますので、
いい具合で意味づけから離れるようにしたりするんです。

それが、リラックスなんです。

ビール飲んでプハー!って言ってる時や、
寝入りばなのひと時。
何かの趣味に没頭してる時や、
グハァ〜ってお風呂に浸かってる時なんかは、
意味づけから離れてたりするんです。

ですが、ひとたび何かを捉えようとすると、やはり意味づけをしてとらえることになるんですね。

何かを捉えるということは、意味づけをするということと同じだからです。

例えば、
よし、思考を手放そう!
と思ったとして、
あっ!今思考が起こってなかった!
やった!と思った瞬間。
アカンアカン、やったー!とか思ってしまった。。。

ってなるわけですね。

無言を声で捉えようとするようなものです。

よっしゃー!わし!静かにしたで!
アカンアカン、喋ってもた。。。

みたいなね。

そして、意味づけの中には自分という観念も自動的に生じるjことになるんです。

捉えるには整理整頓が必要ですので、どうしても分離して捉えることになるんですよねー。
この分離の初っぱなの分かれ道が自分と自分以外という分離なんです。

なので、私は居ないんですよねぇ。
ということを捉えることはできないんですね。

私はいないという状態を私が捉えようとしちゃうんです。

何かを必死で捉えようとすることは、分離のストーリーを生じさせていることと同じことになるんですねん。

なので、一旦いまだけ、ちょっとそういうのは置いておいて、ぷはぁーってしてみたら?
そのぷはぁーに居てみたら?
という提案がよくなされているんです。

そこにあるのは、分離のない単なる気づきなんです。

実際にあるのは単なる気づきだけなんです。
それで全てなんですが、意味づけに慣れちゃうと、
どうしてもこの単なる気づきが、とっても頼りなく感じるわけです。

捉えられないことに対して、不安定感を感じちゃったりするんですよね。

なので僕らはついつい、意味づけの中に「気づき」を探しちゃったりするんです。

「意味づけが無いモノは現実ではない」みたいに感じてたりもするもんですからねー。

なので、悟ろうとしたり、真我を保とうとしたりしちゃうわけです。
これらも捉えようとしちゃうんですよね。
でも、これらって状態じゃないですからねぇ。
捉えられないんです。

でも、プハーのリラックスで居ても、大丈夫なんやん!ってね。
そういうことが知れますと、維持管理していかなきゃならなかったといった今までの動きがとても滑稽に見えたりします。
ああ、この強迫観念に突き動かされて居たんだなときづくんですよね。
もちろん、思考や感情がなくなるわけじゃありません。
あるとすれば、それらに対する深刻さが無くなっていくんです。
「起こっていること」と「起こっていないこと」、
「有る」と「無い」が同義になるんですよね。

つまり、どっちでもいいし、どっちもいいやん♪が板につくんです。

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