お!これは真理だ!
あちゃーっ。。。これは観念だ!
んん?
今日は結構、真我で居れたかもしれない。
あちゃーっ。。。今日は観念まみれだわ。。。
ってねー。
いやいや、真理と観念なんていう分離もないんですけどね。
なので、別になんか清らかな自分。
みたいなものを目指さなくても良いですし、
それと「目覚め」ってあまり関係ないんですよねー。
ただ、それが起こってるってことを感じてるのは、
あなたは在るからであって、
「あなた」と「在る」と「感じている事」と「起こっている事」って
分離されたものでもないんですよねん。
あなたは在る。
私は在る。
っていうのはねー。
なんていうか、ワタシ以前に在るんです。
在るからワタシを経験出来ているっていうわけですね。
そして、その経験と在るは別物じゃないんです。
経験っていうのは、そこに客体も主体も無くて、
ホント、単に経験だけがあるわけですが、
そこに後付けされた、主体と客体のストーリーも起こるんですよね。
じゃ、そのストーリーが幻想なのか?と言いますと、
まあ、確かにそのストーリーは幻想とも言えるわけですが、
これもまた、在ると別にモノとして存在しているわけじゃなくて、
もうダイレクトにそれも経験しておるんですよね。
禅問答じゃないですけど、
手をパチンと叩いたなら、
その風景を見る観察者としての自分と、
手を叩いた主体者としての自分。
そして、音を聞いた観察者の自分と、
音そのもの。
そして、手に残るジンジンとした感じ。。。
とまあ、いろんなものを感じたりするわけですけど、
これ、いろんなものにしているのは、脳内の分類ってだけであって、
実は一個なんですよね。
一個のモノを脳内で色々と分類しとるだけなんです。
これは、手をパチンとする事だけじゃなく、そのパチン以前とパチン以後もなくて、
手をパチンとする人も、それを聞く人っていうのも、実は分類上の話しだけであって、
そういった分離も無いんです。
でね。
こういうことを聞いちゃうと、脳は自然と正解探しをするわけです。
ワシの解釈は間違っとったのか?
てなもんでねー。
でも、それもまた間違いというわけじゃなく、脳は色々と算段をするものですので、
それで良いんですよねー。
だから、観念だらけであってもそれでいいし、観念が消えていてもそれでいいんです。
どうにかなろうとしなくても良いし、あるがままの「それ」じゃない自分なんてものもいないんです。
これは
「脳内の分離に自分を当てはめなくても良いんだよ~。」
っていう気づきであることと同時に、
「当てはめているテイでいただけで、何もあてはめられてませんやん!」
っていう気づきでもあるんです。
「当てはめなくても良いから自由なんだー!」
という気づきであり、
「不自由だと思っていても自由だったんだー!」
という気づきでもあるんですよねん♪
そしてこれは、強迫観念に従わなくても良いんじゃーん♪っていう許しでもあったりするんです。
もし、あなたが何者かにならなきゃいけないと、いろいろなワークにいそしんでいるのなら、そんな強迫観念に従わなくても大丈夫だよーっていうことでもあり、
色々なワークが楽しくて仕方がないんじゃー!っていうのなら、
よっしゃ!存分に楽しんじゃオーっていう事でもあるんです。
そこに、正解も間違いもないんですよねん。
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