夏の人気のない海岸で、
大きめなつばの帽子をかぶった女性が歩いています。
そんなとき、ふいに吹いたイタズラな海風が、女性の帽子をさらって空に舞い上がらせます。
青い空のキャンバスに白い帽子が描かれた瞬間、
女性は「あ・・・。」と手を伸ばすも、帽子は風に乗って、ぐんぐんと空に舞い上がった後、
風を失った紙飛行機のように、ゆっくりと飛ぶ力を失い、
そして、真っ青な海面にふわっと着地するのでした。
・・・
はいどーもー!
タクさんです。
皆さんは素敵な帽子ライフをお過ごしでしょうか?
僕はねぇ。
髪の毛が、いわゆる天パ―なんですよねー。
なので、油断をするとぼわっと髪の毛が拡がるんです。
しとしと雨に日なんかは、
お前は意志を持っておるのか?
と思うくらいボワボワになります。
なので、以前は帽子は手放せない友達でした。
最近はストパーの品質も上がってきておりますので、
あまりかぶらなくなってきましたけどねー。
さて、
なぜかありがちな風が帽子を飛ばす場面を描いてみましたが、
これね。
見てる分には、「あ、、、あちゃー。。。」くらいにしか感じないかもしれませんが、
もし、
これが自分の帽子だったとしたなら、全然感覚は違いますよねぇ。
「うわぁ!急に風が、、、」
「ぬおぉぉぉぉぉ!!!!わしの帽子がー!」
「このボケ、クソ風が!!急に吹きやがって、、、」
「おい!!!おいおいおい!!!!海の上は勘弁してくれ!!!」
「回収できへんやないか!あの帽子いくらしたと思ってるんじゃ!」
「箱付きの帽子なんやぞ!!!まーるい箱付きの高級帽子なんやぞ!!!」
「どないしてくれんねんっ!!!!」
「あああああああああああ!よりによって、海の上に落ちやがってボケがっ!」
「ああああ!沈んでいく、、、クソ―このボケ風!弁償してくれや!!!!」
ってねぇ。。。
思いますよねぇー。
映画のワンシーンなんかでみる帽子が飛ぶ風景と、
自分の帽子が飛ぶ風景。
似たような風景ですが、全然感覚が違うのは、
もちろん、帽子が「自分の」帽子だからです。
例えば、運転してる車を、カーンッって蹴られたら、
メッチャ腹が立ちますよね。
これも車が「自分の」になってるからなんですよねー。
こないだ、テレビで衝撃映像スペシャルみたいな番組をみてたんですが、
ショベルカーの運転手と車の運転手が喧嘩してたんです。
そしてショベルカーの人が怒ってショベルカーで車を破壊しだして、車の持ち主が頭を抱えてるんです。
これだって、見てる分には、おいおい!怒りすぎー!ってな感じで笑いながら見てますが、
破壊された本人は頭を抱えるようなショックを感じます。
この違いも、
「自分の」があるか無いかの違いですよねー。
自分という観念は、普段は大体自分の身体や自分の心、思考や感情を自分としている時もあれば、身体を客観的にみていながら、客体であるはずの身体を自分としてみている場合もあるんですね。
はたまた、車や帽子なんかも、「自分の」をくっつけると、たちまち自分になっちゃうんですよね。
自分っていう観念は絶対的なもののように受け入れられていながら、よくよく観察すると、結構いい加減なものでもありますよねー。
さて、
僕らの前には常に変化する風景が広がっています。
これらの風景に、
ネコはネコなりの、
人は人なりの意味づけをするわけです。
ひょいっひょいと動くものを見たらネコはそれを獲物っぽい何か?として捕らえ、
人が見ると、風になびく猫じゃらしとして見るわけです。
人は意味づけされたものをさらに複雑に組み合わせてストーリーを作ることに長けています。
実際にストーリーは起こっている事ではなく、後付けされた意味付けをさらに膨らましたものなんですが、この意味づけを僕らは見てますので、意味づけ=現実となるわけです。
人はこのストーリー作りに長けているんですね。
ちょっと長くなりましたので、明日に続きますねー。
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