Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

無条件の愛への探求と探求の決着。

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おはよーございます。
タクさんです。

全てである「それ」はまさしく、無条件の愛なんです。

ゆーてねー。
今日も言ったりしてるわけですけどねー。

まあ、無条件の愛って、
なんて寛大なー!って思いますよねぇ。
なので、どうにも得難いスゴイものが「それ」にあるわけやな!
そして、その「それ」がある「そこ」はどこにあるんだろう?

って夢想しちゃいますよねぇ。

だから、どこかにある無条件の愛を探しちゃったりするわけですもんねぇ。

じゃあ、どこにあるのか?って話を書いていきたいと思います。

 

まあ、そうは言っても、
ハイハイ。
どうせ、「ココ」に既にあるって言いたいんでしょー。
って思われるかもしれませんね。

うん。
まあ、そうなんですけど、
そう言われたとしても、この「ココ」がわからんがな!
って方も多いと思うんです。

これね。
言い方を変えますと、

実はね。
どこにも無いんですよ。

どこかにあるんだとしたら、それって条件付きってことになりますよねぇ?

「はるかガンダーラに行けば、あるというよぉ〜♪」
ってことだとしたら、ガンダーラにある愛ってことになりますので、
条件付きってことになりますからねぇ。

また、
何かしらのことをしたら、それを得られると言うのであれば、
これまた条件付きってことになりますよねぇ。

何かしらのことをしている間だけある「愛」。

って言うことですからね。

逆に言えば、
何かを手放したら得られる愛。
というのも、これまた、条件付きですよね。

でも、ここで言ってるのは無条件の愛ですからねー。

どこまで言っても徹底的に無条件なんです。

でね。

条件をつけてる間は、その条件という縛りの中にいますよねぇ?

例えば、相撲をするんだとしたら、
地面に円を描いて、ここから出たら負けってことねー!
ってやるわけです。

これってね。
無条件の中で条件をつけてるわけです。

するとね。
あ、そうか!この条件付けを外せばいいんだ!って
なんとか、条件付けを手放した状態を手に入れようとしちゃったりするもんです。

だから、思考を手放そうとしたり、観念を手放そうとしたりします。

たしかに、それらを手放す瞬間が訪れたりすることもあります。

そんな瞬間に、
「おお!これが『それ』か!これが真我の状態か!」
って思ったりすると思うんですよね。

そうなると今度は、この「それ」とか「真我」とか、何かしらの状態。
全てから自由になった状態でいようとしたりしちゃうわけですが、
それはそれで、もう条件をつけちゃってるので、いつまでたっても行ったり来たりを繰り返したりするわけです。

いつしか、どうすればこの状態を保つことができるのか?
といった修行に精を出したりしてねー。

こういったね。ありとあらゆる条件を外すと、もうそれは愛なんですが、
それは、「条件を付けを外す」という条件も含まれるっていう感じなんですよねー。
言葉で表現すると途端にややこしくなりますが、
それは言葉自体がすでに条件付けの影響を受けてるからなんですけどね。
この辺は柔軟に感じ取ってもらえれば良いと思います。

でね。
条件っていうのは仮の分離を生むんですね。
そして、その分離が探求を生むんです。

でもどんな条件や分離を積み重ねたところで、
実は「全て」は何の影響も受けてないんです。

相撲をするときには地面に丸を書きますが、
僕らが作る条件は、空間を指でなぞるようなものでね。
地面に書いた丸以上に実体はないんです。

幻想と言われているのは、そんな条件のことなんですが、
そんな条件も、そして条件のなさも同じところにあるんです。

だから、状態にだって、こだわらなくても良かったんやーんってなるんですね。
するとねー、この探求に決着がつくんです。

探求に決着がつくと、分離も非分離バッチオッケー!
二元も非二元もバッチオッケー!
どっちも同じ!そしてそれしかない!ってことになってきます。

好きなことも嫌なことも、愛らしく起こってくれるんです。

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