Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

分離への気づき

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僕らが何かを掴み取るには分離させなければつかみとれません。
だから何かを掴み取る際には、仮の条件を当てはめて、分離をさせることによって、
イメージ上の境界線を作るわけです。
そして、掴み取るわけですねー。

ここで言っている「掴み取る」というのは、いわゆる理解や納得。
という意味なんですが、
この意味というのは、仮に作られた条件によって生み出されたものですので、
実際に存在するものではないんです。

なので、本当は、全てに意味はない。
というわけなんです。

ですが、僕らは何かに意味を付与して、掴み取るという行為が
習慣化されすぎてしまっているんです。

だから、条件をつけて、整理整頓して、理解しなきゃ納得できない。
そして、納得できなければ始まらない。

と思い込んでいたりするわけです。

 

なので、
「本来は全ては分離していません。」
と聞いちゃうと、そのことを確かめてみたくなっちゃうわけです。

でも、確かめるためには、条件を当てはめて分離させなければ僕らは確かめようがありませんのでねー。
ここで妙なパラドックスにはまってしまうというわけです。

分離がないというのは、
そうやって僕らが何かを確かめようとするときに使う条件。
この条件が、イメージの中にしかないということの発見なんですよね。

空を見て、あれが雲で、あれが青空だ!
といくら分けて認識しようとも、実際に空と雲の間には協会もなく、分離はありません。

青空と雲を分ける条件はイメージの中にしかないんですよねー。

まあ、とはいっても、これはイメージされたものを否定するものではありません。
分離がないというのをイメージの世界に持ってくるというのは、
これまた本末転倒ですのでねー。

分離のなさを理解するということではないんです。

ただ、僕らが世界を掴み取るのに、分離をすることで掴み取るとっかかりを作ってるんだねー。
ってね。
ただ、知るだけの話なんですよね。

正解も間違いもありません。
正解や間違いは条件の中にしかありません。

なので、分離なんてないんだー!と知ったところで、
分離がないように装うようになるということでもなく、
特別な何者かになるということじゃなく、
忘れていたスタート地点を思い出すだけなんです。

僕らはもともと条件を持っていませんでいた。
もともとすべては無条件なんです。

そして、僕らはこの無条件であるスタート地点からどこかへ離れたことはなく、
単にイメージ内で離れているという錯覚をしているだけなんです。
特別さというのもこのイメージの中にしかない概念なんです。

もし誰かに特別さを感じているのなら、その差分、何かしらの観念を掴んでるってことになっちゃいますのでねー。
この特別さっていうのは、ある種の条件ということです。
ですが、「それ」は条件の中にはありません。
この無条件さの中、僕らは何かをつかむために条件を使うわけですが、
いつしか掴んだものが条件そのものになっておるというわけです。

掴んだものが現実ではなく、イメージ上の条件だと確かめられてくると、
その条件は手放されていきます。
また僕らは無条件さを知りながら、条件を手に取り遊ぶこともできるんです。

 

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