元々在るものってねー。
無条件なんですよね。
ほら
よく無条件の愛があるって言われてたりするやないですか。
これね。
もっと厳密にいうと、無条件だけが在るんです。
そして、その無条件っていうのは愛そのものだったりするんですよね。
なんていうか無条件だからこそって感じです。
そして、
安堵と至福が在るとも言われてるじゃ無いですか。
これも一緒でね。
無条件だからこそ、
無条件ということがね。
=(イコール)至福であり、安堵なんです。
僕らはこの無条件さに条件をつけることによって、苦を生じさせているんですねー。
その条件が、
実際は無いものと戦わなきゃならない理由になったり、
自分を自由にさせない鎖となったり、
誰もわかってくれないという思いを呼び起こしてみたり、
なんで自分だけこんなに苦労が多いんだ!と憤る原因となってみたりするわけです。
そして、
あるがままから目をそらさせていたのも、条件を鵜呑みにしてたからなんですよねん。
そして、デーンと居座ってしまったその条件を満たす為に、
満ち足りるものを探し求めなきゃならなくなったんですよね。
「それそのもの」
「あるがまま」
ってね。
何か素晴らしいものなんだと思われてる方もおられるかもしれませんし、
「それ」にあれば、もうあらゆる問題が解決されるんだ!
なんて思ってられる方もおられるかもしれません。
「それ」に在るような人は問題もなく、なんか恍惚感に満ち溢れてて、
幸せに暮らしてるんだ!
みたいなことを思ったりもするかもしれません。
でもねー。
そういった特別さを持ってきてくれるわけじゃ無いんですよね。
そして、あらゆる条件を満たしてくれるものでも無いんです。
悟りに至った人が、なにか特別になるわけじゃありません。
どちらかというと、悟りに至るというのは、その辺の路傍の石と同様になる。
ということなんですよねん。
まあ悟りという言葉がちょっとファンタジックですが、
悟りとは当たり前のありのままのことですので、
そのまんまに至る。って感じですかね。
至らなくても、もう至ってますし、至りようがなかったりもするんですけどね。
当たり前すぎて、無視されてきたもの。
その辺に落ちてる石ころのように価値すら与えられてこなかったもの。
それが、「それそのもの」であり、
それが、「無条件なありのまま」なんです。
僕らが条件に夢中になっている間は、
無条件さはあまりに退屈でくだらなく味気の無いものに見えるんです。
なので、僕らは満ち足りたキラキラな何かを「それ」に求めたりします。
一瞬垣間見た無条件なリラックスさえも、キラキラの素晴らしい体験として取っておこう、持っておこうとしちゃったりねー。
だけど、無条件さを条件付きの世界に持ってくることは出来ないんです。
でもある日、その条件を見据えたとき、
え??なんでこんな条件の中に自分を閉じ込めてたんだろう。
って気づくんです。
ちゃーんと見据えることができた時にね、
今まで絶対的だったあらゆる条件は、とっても狭い檻のようなものだったと気づくんです。
何かが広がるための条件だったはずなのに、逆やん!って気づくんですねー。
すると、今までは目にすることすらなかった
路傍の石、
雑踏の音、
飲み残しのコップ、
その他すべての目の前のありとあらゆるものが、ありのままのイノチの表現として蘇るんです。
目の前の景色が変わるわけではありませんし、捉え方を変えるということでも無いんですけどね。
条件を通さずにみた時、そこに今まで通りあった無条件さが甦るんです。
その無条件さこそが、
愛そのものであり、イノチそのものであり、安堵そのものなんです。
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