Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

探求の終わりの始まり

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おっはようございます。
タクさんです。

僕は京都生まれです。
生まれた時は4000gだったそうです。

病院でのあだ名はジャンボくん。

赤ん坊の頃のことは、ほとんど覚えてないんですが、
いっこ覚えていることがあるんですよねー。

赤ちゃん用の椅子に座っていて、その椅子の背もたれに背中を擦り付けながらずり落ちると、なんか背中がとっても気持ちよかったんです。

その気持ち良さを味わおうと椅子からずり落ちて着地をする。
すると母がまた椅子に乗っけてくれる。
っていうのを繰り返してたんです。

着地の仕方が見事だったらしく、
母はこれをおもしろがって、写真に撮ろうとカメラを用意して、
ずり落ちる様子を写真に収めようとしていたらしいんですね。

そして、「もう一回やって!もう一回!」と僕に向かってカメラを構えながら、
言っていたらしいんですね。

僕の方では、当時は母親だという認識もなく、自分以外のだれかが目の前にいる。
といったような意識はなく、何を言ってるのかももちろんわかりませんでしたが、
なんとなく期待感みたいな意識は感じて、その期待感が膨らんでいくと、自然にまた椅子からずり落ちてたんです。
背中の気持ちいい感触も感じながら。

するととても母が喜んでいたんです。

当時に記憶としては、母が喜んでいるという感覚ではなく、
喜んでんる雰囲気が内面から湧き上がってくるという感覚だったんですよねー。

後々、アルバムをみたところ、その時の椅子からずり落ちる様子を写した写真を見て、
あー、この時のこと覚えてるわぁー。ってなったんです。

なので、なんとなーくではありますが、赤ん坊目線での周りの様子の見え方は感覚的に覚えてるんです。
なんていうか、誰かがいて、私は何者でといったような世界の見方とは全く違って、
もっと全体的でダイレクトで自然な感覚なんですよね。
私に背中の感覚があるのではなく、背中の感覚が単にある。
そして、喜びの感覚も単にある。
そこに「誰が?」というものは一切ないんです。一切の分離はありません。
それこそ、分離して物事を捉えるなんていうのは、とても高度な捉え方で、
さらにはとっても不自然で疲れる捉え方なんですよねー。

きっと動物もそんな目で世界を見てるんじゃないだろうか?なんて気がしています。

 

まあ、皆さんも、以前は赤ん坊だったわけでして、赤ん坊だった皆さんは判断基準を持っていなかったと思うんです。
なので、言葉も文化も教育も、純粋になんでも受け入れてきたわけなんです。

そして、ここで何を受け入れてきたのか?というと、条件と判断基準を受け入れてきたんですよねー。
「あれは、ヘリコプター。」
「これは、とうもろこし。」
「地べたをなめたらダメ。」
「これを口に入れたらダメ。」
「帰ってきたら手を洗わなきゃダメ。」
と言った具合にねー。

そして、大人になっていくに従って、この条件と判断基準は膨大な数になってきました。

そして、世界はまるでその条件に従って動いている。という錯覚にすっかりはまっちゃったんです。
太陽は東から昇り、西に沈む。
といったようなことを信じ込んじゃったんですよねー。

なので、もっと世界を知るには、もっとうまくいくには、新たな条件を身につけなければならないと当たり前に考えるようになったんです。

そして、どんなものでも、この条件によって判断するのが常識だと思い込み、
この常識を疑うことすら忘れてしまったわけなんです。

時間の概念。
原因があって結果が起こるという因果の法則。
物理の法則に引力の法則。
自分がいて、他人がいるという概念。

これらもまた単なる観念的なものだったんですねー。

そうやって受け入れてきたものが、判断材料となり、僕らはその判断に取り込まれ、競争社会にはまり込み、条件や決まりごとを通して目の前の世界を見てきたんです。

これはこれで、良いんですが、
そうやって受け入れてきたものに不自由さや違和感を感じてきた場合、僕らの人生は、探求のステージへと移るんですよね。

ですが、どうしても今までの条件探しのクセが残っていますので、
この探求もまた、新たな条件探しになっちゃったりするんです。

・真理の法則
・悟りへの道
・引き寄せの法則
・カルマの解放

みたいな感じでねー。
でね。これらもの法則もまた、観念的なものなんです。

僕もたまに、「悟った人なんていてませんよん」「みんな既にそれなんですよー」
なんてことを書いていますが、
悟りが特別な何かというわけではなく、既に皆さんが特別なんですよね。

本来特別なものは一切ないわけですが、何かを特別にしていたんです。

そんな特別さから脱皮し、普通に戻っていくこと。
僕らがいろいろ掴んでいた条件から目覚め、無条件さに戻っていくこと。

もっと正確にいうと、イメージの中にしか特別さはなく、
僕らはずっと当たり前だったこと、ありのままだったと思い出すこと。

これが、気づきなんです。

気づいていくうちに、苦や悩みは、条件なしには発動せず、苦も悩みも条件の中にしかなかったことが明らかになっていくんですよねー。

だからといって、無条件に生きなきゃならないわけでもなく、
全ては無条件であることが見抜かれたまま、条件をちゃんと条件として扱うことができるようになるわけです。

条件を真実として扱うのじゃなく、ちゃんと条件を条件として扱うという感じですねー。

ここで、今までの条件探しの方向性が逆転し、

新たな条件を真実として得ていくという方向性から、

単に条件は条件として見抜かれる方向に転換されるわけです。

ここが探求の終わりの始まりなんです。

 

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