Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

教会の懺悔室って面白いですよね。

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自分が、色々と自分に対して許せてない罪悪感を告白し、
そして、それを自分の代わりに許してくれるんです。

罪を告白しなさい。
神は全てを許します。
さ、祈りましょう。。。

ってねー。

海外の映画ではよくこういうシーンを見ますが、日本にもあるんですかねぇ?
ま、あるんでしょうけど、あまり一般的ではなさそうですねー。

 

ま、これはこれでいいシステムだと思います。

僕らは自分を許せたとき、救われます。

何から救われるのか?と言いますと、
自分が「あっかーん!」としていたことから救われるわけです。

つまり、この世の苦は、自分が自分に課していた「許さない!」が生み出していたというわけですねー。

それを、自分の代わりに「許してあげよーやないか!」と
許しの役割を代行してくれるのが懺悔室だというわけです。

ただ、この懺悔室のシステム。
大きな欠点があるんですよねー。

それは、
信心が深くなきゃ効力を発揮しない。
ということです。

だって、そこらのおっさんに、
「許します」
って言われても、多少気が楽になることもあるでしょうが、
おっさん関係ないがな!ってどこかで思っちゃいますからねー。

だから、聞く側の神父のおっさんはスゴイ人じゃなきゃならなくなります。
でもありとあらゆる神父さんみんなが聖者並にスゴイ人、信頼に足る人。
許しを与える側の人として君臨するのはかなりハードルが高いですよねー。

なので、
神に仕える人ということにして、
バックにどえらいもんがついとるんやでー!
ってなっとるわけです。

そうなりますと、この神もまたどえらい存在でなきゃならないわけです。

そういった大前提、土台をしっかり作り上げた上で、
自身を許せない人の代わりに、許しを与えてあげるんです。

みーんなが、そうやって、神をどえらい存在として受け入れていたなら、
その神がバックについとる神父さんに許されるのなら、
もしかしたら、ワシは許されとるのかもしれない。
ってなりますからねー。

自身が作った条件が、自身を許さなくなっていた。
そんな誤解から、自分を許すことによって救われます。

自分を許してあげることによって、条件という鎖が外れ自由になり、
本来自分が表現したかったことを、思う存分表現できるようになりますので、
もう良いことづくめですよね。

ただ、そんな中、
「神とか、、、ウケる(笑)」
みたいなことを言い出す輩が出だしたら、大変です。

神父さんの許しの効力を失ってしまいますからね!
これは由々しき問題となっていき、
神への冒涜者だ!冒涜者は排除されなければならない!!
なんてことになったりして、、、。

なんとか権威を守らなきゃならないハメになってきたりしてね。

はたまた、
「なにぃ!ワシらの神以外の神を崇めてる集団がいるだとっ!!」
ってなってくると、これまた問題です。

神が増え出すと、
次はどこの新聞を取ろうかしら〜。
てな具合で、神が選ばれる。
みたいなことになっちゃいます。

そうなると、もう権威は保たれません。

あら、こちらの神さまはお安いわねぇ。
ご利益もありそうだし、、、こちらにしようかしら。。。
でも、ちゃんとご利益ないと、変えちゃいますからねっ!

なんてことになったりしてねー。

だから、絶対に他の神を認めるわけにはいかなくなります。
そして、対立を産んじゃうんですよね。

人を救うためのシステムを守るために人同士が対立しなきゃならない。
なんていう本末転倒さを生じさせたりもしちゃうわけです。

神は人間を作り、人間は神を作ったが、そのどちらも実在してないんですよねー。

ま、そんなわけでして、
自分を許すのは、やっぱり自分しかおらんのです。

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