Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

何かを足すことも引くこともしなけりゃ、元どおり

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理由を探り出すと自動的に判断が加わっちゃいますのでねー。
理由は判断とセットなんです。

すると良い判断の場合は問題なしですが、その理由が都合が悪い場合はそれが問題となるわけです。
なので、都合が良いものに変えてあげなきゃならなくなるわけですね。

つまりですねー。その問題も変えなきゃいけないこともぜーんぶこの理由という袋の中にあるっちゅうことですね。

原因と結果という観念が理由を求め、その理由に判断を下しているんですね。

この理由と判断がね。
かなり隔たった問題として掴みとられてたりしますと、
苦となり、悩ましくなるわけです。

だったら、こういった判断を一切取り去りたい!
なーんて思いがちですが、

悟ったり何かに目覚めたりするとこういった理由や判断ががなくなるのか?と言いますとそういうわけじゃないんですよね。

思考を起こさないようにするとか、思考が起こらなくなるということとも全然違います。
ラマナさんだって新聞読んでる写真とかが残ってますもんね。
思考能力が無けりゃ字も読めませんし。

ま、いずれにしても起こるもんは起こるわけです。
それは思考にしたってそうです。
ただ、そこに行為者がおらんということなんですよね。

 

まあ、そういうわけで、
こういった理由や判断が起こってくるくせが取り除かれた自分になる。
ということじゃなく、単にそれが自然現象だということが見抜かれるだけですのでね。

思考やカルマを全て取り除き、クリアな自分になる必要もなく、
常にクリアな状態を保てるようになる必要もないんです。

もし、そうしたいと思っているのなら、それは目の前の現実から目を背けているということなんですよねん。

クリアで静寂で何か特別な状態が「それ」だということじゃないんです。
「それ」とは、平凡で喧噪で混沌とした目の前の世界。
その喧噪な混沌は同時にクリアで静寂でもあるということの発見なんです。

できない自分を責める必要はありませんし、
目覚めてない自分に失望する必要もないんです。
目覚めた特別な人っていうのはいてませんので安心してください。

何も持ってない、足りない自分を受け入れてあげたらいいんです。
それが目覚めと呼ばれていることなんです。

持ってない。足りないという誤解を受け入れてあげることで解いてあげるんです。

これはね。
どうしてもそうは思えないけど、自分はそのまんまでいいんだー!
って言い聞かせたりすることじゃありません。

自分はそのまんまでいいんですねっ!ホントですね!
って信じたりすることでもないんですよねん。

何かを心に信じさせて、その心のご機嫌を取り続けなくてもいいんです。
もう心の状態について気にし続けなくてもいんです。
心さんの顔色を伺って生きていかなくてもいいんです。

心は心でやなことを感じたり、楽しく感じたりします。
それを楽しく謳歌させてあげたら良いんです。

それが受け入れるっていうことなんですよねん。

受け入れるのに、すべき何かはないんです。

ただ、そのまんまにしておいてあげるだけです。

実はね。
「そのまんま」にせずに、それに抵抗して、
どうにかしようとしてたとしても、
それも含めて「そのまんま」なんです。

その抵抗もまた「そのまんま」の表現なんです。

うまく行かないわぁ〜って思ったとしてもそれもまた、
「そだねーっ」て、許してあげたらいいんです。

「そのまんま」からは逃れたことも離れたこともないんです。

まあこの辺がちょっとしたジレンマになっちゃうんですよね。
シンプルすぎるんでねー。

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