Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

夢と目覚めと非二元と。

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思考やカルマ。
感情や心。
そして運命に宿命。

こいつらってパッと聞いたらなんか強そうって感じしますよねー。
ちょっと太刀打ちできそうなのは、思考くらいでしょうかねぇ。

それ以外はちょっと勝てる気しないわ。。。
ってねー。感じるかもしれません。

なんで強そうに見えるのか?
と言いますと、それはコントロールできそうにないからなんですよね。

でも
思考やカルマに感情や心。
運命に宿命って
実はなんの強制力も無いんですよね。

ただ、そこに自分ではどうしようもないチカラがあると思い込んでいる間だけそれに縛られるんです。

めっちゃパワーがあるように見えるのも、
実は力を与えてるのは自分なんですよね。

自分で力を与えて、自分が縛られてるんです。

 

強制力がないっていうことはコントロールしなくても良いわけです。
する意味がないですからねー。

強制力があると思っているから、なんとかコントロールしなきゃならなくなるんです。
そして、うまくコントロールできないから困っちゃうわけなんですよねん。

実は、困ったなぁーって感じたりしてる原因は、
コントロールできないからであって、
思考や感情の方に原因があるんじゃないんですよね。

なのに、どうしても思考や感情を変えようとしちゃうんです。
変えなきゃダメだ!って思っちゃうんですよね。

するとやっぱりコントロールできないのでいつまでたっても困っちゃうわけです。

やらしいことにたまに上手く行ったりするんですよね。
だから、よっしゃ!ワシが育てた!ってな感じでコントロールできてる気がするんです。

思考や感情。
どうしてもそこに原因があるという風に見えちゃうのは、
自分の中にある観念というレンズを通して見てるからなんですね。

この観念はなぜ存在するのか?といいますと、
これまた、うまくコントロールしなきゃならないという思いから生じているわけでありまして、じゃあなんでコントロールしなきゃならんのや!と言いますとそれは「自分とその他」という分離の観念がデーンとあるからなんです。

しかもね。
こうして見ていきますと、
なるほど、その奥には分離の観念があるわけか!
ではこの分離の観念とはどういうものなのか??
と行った具合にね。

「なんでや?」ということを観察していった先に何か答えがありそうに見えますよねぇ。
なので、なんとか答えを探求しようとしちゃったりするわけですが、
なんていうか、性質として、答えはさらなる理由を作り出す性質みたいなものがあるんです。
なので、答えを求めるとさらなる疑問が出てくるわけなんですよね。

これが輪っかのようになってまして、いくら答えを見つけてもその次の疑問が出てくるんですよね。
探求の中で答えを求める物語には終わりが訪れないようになっているんです。

それが輪っかのようにぐるぐると回る様子が輪廻であり、
探求の仕組みのようなものなんですよね。

「おかしいやんけー!じゃあ答えはどこにあるんやー!」

ってねー。

クレームの一つでも言いたくなったりしますよねぇ。

でも無いんですよね。答えって。
無いから見つからないんです。

あえて答えを表現するならば、
「正解とか不正解といったものはない。」

っていうことなんです。

そして、なぜ正解を求めるのか?といいますと、
分離という観念があるからなんです。

分離なんてどこにもないのに、その観念に従っちゃうから正解がどこかにあるように感じちゃってるだけなんですよねん。

非二元とは、何かのコンセプトではなく、
定義でもないんです。

それは、単に分離ではない
ということを指し示しているだけなんです。

ないものをあるとしている。
それが夢と言われていて、
それが夢だと明らかになることが目覚めであり、
目覚めたとしても、目覚めたまま夢も起こるんです。

どんな夢が起こったとしても、そこに何かを強制する力なんてあるはずがないと見抜かれてるんです。

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