Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

都会の絵の具と心の汚れについてのお話

はじめに

はーい。
どうも!

最近は郊外に移り住んで、
すっかり都会の絵の具が剥がれ落ちてきたタクさんです。

久しぶりに都心なんかに行くと、
ビルの多さに面食らっちゃいます。

以前は、ずっとこのビル群の中で住んでいたんですけよねー。
なんか、道も狭いし、人も多いしねー。

というわけでおはようございます。
みなさんの都会の絵の具は何色でしょうか?

さて、
今日は心の浄化というものをテーマに書いてみたいと思います。

僕は、以前、とある瞑想教室なるものに行ってみたことがあったんですけどね。
そこでもやたらと心の浄化なるものについて語られておりました。

みなさんの中にも、
きっと心の浄化に勤しんだ方もおられると思います。

 

心の浄化にゴールはあるの?

確かにね。
心の浄化に勤しんでおりますと、ある程度は心がキレイになったような気がするものです。
瞑想っていうのは、心を静めてじっとあることですのでね。
そうしてますと、ゆったりと落ち着いてくるもんです。

落ち着いてみて初めて、心が騒いでいたことに慣れきっていたことに気付いたりするんですよね。
まるで、田舎に行ってみて初めて、都会の喧騒を知る。
みたいなね。

でもねぇ。
以前と比べてかなり心が浄化されたように思う。
ってなことになってもね。

とある瞑想教室なんかでは、
でもまだ、完璧とは言えないでしょう??
完全なる浄化への道はまだまだですよ!

的なね。
そんなことを先生に言われたりするんですよねー。

そうすると、生徒さんたちは
「確かに、完全に浄化されたか?と言われるとまだまだそうでもない。」
「まだまだなんだ。」

って思っちゃったりするんですよね。

でもねぇ。
じゃあ、どこがゴールなのよ!
って思ったりしますよねぇ。

そのゴールに辿り着いたなら、ブッダみたいになるのか?
みたいなね。

ま、これもまた、完全なる錯覚なんです。

そもそも心って汚れるの?

そもそもね。
心の汚れって本当にあるのか?
っていうことをね。
一回疑ってみたらいいと思うんですよ。

それって、なんかそういうものがあるような気になってるだけちゃうんか?
ってね。

心って汚れたり綺麗になったりするもんなのか?
ってことを疑ってみるんです。

これねぇ。
結論を言っちゃうと
ウソなんですよ。

心が汚れるということ自体が単なる思い込みに過ぎない。
ってことなんですよね。

心の浄化にゴールがあるのだとすれば、
そもそも、心に汚れなんてものは存在しない!っていうことを見破ること。

これがゴールだといえるかもしれません。

よく僕は、瞑想は別に悪いことじゃないし、
心も落ち着いた気分になるので、良いもんですが、
別にこれが悟りとか目覚めにつながっているものか?と言われるとそうでもない。
っていうのは、そういうことなんですよね。

心とは思考のことである

そもそも心っていうのは、思考のことなんです。
思考と感情、それに伴う感覚。
これらは一緒に起こるわけですが、これらを心と呼んでいるわけですからね。

そして、思考に綺麗も汚いもないんです。
それは単なる判断によって分けられたものにすぎません。

さらにいうと、思考っていうのは、
イメージですからね。

空想のようなものにすぎません。
これに綺麗も汚いもないんですよ。
だって、どこを拭き掃除すればいいんですか!
ってことですもんね。

そもそも僕らは思考から自由である

そして、僕らはそもそも思考からは自由なんです。

ただ、思考によってつくられる「自分」を信じている間だけ、
僕らはこの思考に捕まっている「てい」になっているんですよね。

そして、その「てい」がなくなるのは、思考が起こっていない時というわけなんですが、
これもね。
そもそもこれが「てい」であることに目覚めちゃうとね。
そもそも僕らは、実際に思考に縛られたことなんてないし、思考が何かを縛ることなんて、できないじゃん。
ってことが見破られちゃうんです。

つまりね。
あなたの心だって未だかつて汚れたことすらないんです。
汚れたことがないものを浄化する必要もまた無いってことなんです。

 

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