Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

その状態をやってみるということ。

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思考の物語を一旦置いておいて、リラックスしてみる。

不安な思いも愛でてあげる。

そういうのってある種の呼び水になると思うんですよね。

実際は不安や恐怖、
そして、恐怖からくる怒りも愛の表現でございますからね。
それを愛でてあげることって、そのまんまをやってみている。
ってことになるんですよね。

で、色々と起こる思考をそのまんまにしておいてあげる。
っていうのもまた、おおもとの「それ」をやってみる。
ということになります。

 

もちろん、「それ」をやってみるのと、「それ」とは全然違いまして、
むしろ、不安や思考も含めてその全部が「それ」ですので、
もうすでに「それ」ってことなんですがね。

これは、善と悪。
正しいと間違い。
色(しき)と空(くう)。

これらのどっちかに立ち位置を置く。
ということじゃありませんでして、
そういう立ち位置という観念を観念として見破ってる。

見抜かれている。

つまりは、立ち位置なんてあらへんがな。
って、そのどちらをも超えていく(超える何かがるわけでもないんですが・・・)
ってことですのでねー。

そのまんまを一所懸命保つように頑張るってことじゃないんですけどね。

でも、まあ、例えば、色(しき)と空(くう)というふたつの道があったのだとしたら、その両方の道を歩いてみる。
みたいなね。

そうしてみると、
「あー。かたっぽの道しか知らなかったけどそうじゃなかったんやん。」
って気づく糸口になるかもしれません。

そういう風にあってみるっていうのは、
その呼び水の役割を促したり、準備体操のような役割を担ってくれる場合もあると思うんです。

ただ、いっこ注意点があるとすれば、
どっちかの道が正しいっていうわけじゃなくて、
この分かれ道なんてなかったんやん。
色も空もないやん。
っていうのがホントのところなんですけどね。

どっちの道を行けばいいのか???
って思ったときに、
自分は翼を持ってたことに気づく。って感じでしょうか?
「あ、別に道を選ばんでも、飛んで行けばいいやん。」
ってね。思い出すんです。
そして、飛んでみた時に、道は道の意味を失うんですよね。
意味ないですしねー。
ただし、道のように認識してたものは別に消えるわけじゃないっていうね。

さらには、どこにも行かなくても良い中で、
ちょっと歩いて散歩をしてみよう!ってしてたことにも、
飛んでみて思い出すっていうね。

例えが下手ですが、なんかそんな感じなんです。

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