Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

わからんが正解であり、わからんが「ありのまま」ってどゆこと?

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おへよーございやす。
最近はやや寝不足気味のタクさんです。
皆さまいかがお過ごしでしょうか?

んーー。
しかしまぁ、なんですなぁ。

なんでもないんですけど。。。

さて、普段僕は、記事を書いてすぐにアップするってカタチじゃないので、
この記事がアップされる今日の天気はどんな空模様なのかはわかんないんですが、
例えば、雨が降ってるとしますよねぇ。

で、僕らは、雨が降ってるって言ったりします。

だから、雨降りの現象は雨というものが降っているものとされていますけど、
そう呼ぶ前から、雨は降っているわけですよね。

それは、雨でもなく降っているでもなくね。
ただ、なんでもないものが起こっていて起こってないというわけですねー。

ん?
「何言ってんのかさっぱりわからない。」
って思われますかもしれません。

うん。
でも安心してください。
僕もわかってません。

という訳で今日は
「わからん」がまさに「ありのまま」と言うテーマで書いてみたいと思います。

 

なんでもないものをわかろうとした時、

僕らはなんでもないものに名前(レッテル)をつけます。
それを「雨」と呼ぶことにするわけです。

そして、落ちてくる現象を「降っている」と呼ぶことにするわけです。

これもレッテルですよね。

で、
「雨が降っている」
になるわけです。

最初から雨が降っているわけじゃなく、
雨が降っているはレッテルに過ぎませんよねー。

風だってそうですね。

なんでもないものが起こっていて起こっていない。

これを、何が起こってるんだ?とした時に、
これは「風」だ!と
そう呼ぶことにするわけです。

で、風が起こっているんだ。

ってなるわけです。

雨にしろ、風にしろ、この現象は
名付けられたレッテルの後に起こったわけじゃなく、
現象が先立ちますよね。

そして、現象は、なんでもなく、起こっていて起こってないものを、
何かが起こっていると認識した時点で、現象とされているわけです。

言葉で表現するとものすごーくややこしい表現になっちゃったりしますが、

カンタンに言うと、
雨や風(と呼んでいるもの)が先にあって、
後から、それを、雨や風だと呼んでいる。
と言うわけです。

それがどーしたんや。
って話なんですけどねー。
もちょっと続けていきたいと思います。

例えば、人生。

じーんせーい。勇気がひーつよーうーだー!
って黄門さんも言ってはる「人生」ね。

その人生にも皆さん、色んなことが起こると思います。

この人生もね。

色んなことが起こっておるなぁと思うからには、
先に人生が起こっとるわけですね。

つまり、人生が先にあると言うわけです。
その後で僕らが、
「はい!これは分岐点でーす!」
「はい!ここ!人生の幸せな時期でございまーす!」
「お!この場面!今まで生きてきた中で1番幸せです。キマシター!」
「ん!ちょっとこれはしんどい場面でございます!」

って起こってることを細分化して、色んな呼び方で呼んでいるわけですねー。

この辺は、雨を雨と呼ぶ、風を風と呼ぶのと同様です。

でね。
雨を雨と呼んだ時点で、僕らはダイレクトなそれそのものを見失っちゃうんですよねー。
雨と呼んだ時点で、その言葉のイメージの方を採用しちゃって、
今まさに起こっているダイレクトな奇跡に目を向けることをやめちゃうんです。

始めて、空から水が落ちてきたというこの摩訶不思議さを、
レッテルの中の現象として収めてしまうんです。

レッテルを貼ることが「知る」ということとなり、
知ることにより、
ダイレクトな未知から目をそらしているんですよねん。

ありとあらゆるものを
細分化し、整理してレッテルを貼った時点で、僕らは「そのもの」よりもそのレッテルのイメージを採用しちゃうわけです。


よく言われている「全ては幻想だよーん。」って言葉はねー。
なにも起こっていること全てが嘘だと言ってるわけじゃなく、そのレッテルとその中にあるイメージを幻想だと言っているわけですね。

まだ、雨や風ならそんなにややこしくはならないんですけど、
それが人生となった場合はさらに複雑になって来るんですよねん。

起こっていることを名付けて整理しただけじゃ収まらないんですよね。

名付けて整理した時点でもう「それそのもの」じゃないわけなんですけど、
さらにそこに物語を付け加えたりするんです。
そしてその物語をうまくコントロールしなければならないという思いも同時に生じるわけです。


「起こってはいけないことが起こってしまったー!」とか、
「起こってはいけないことは今後どうすれば起こらないようにできるのか!」とか、
はたまた、
「起こるべきことが起こらない!」
「どうすれば起こるべきことを起こせるのか!」
と躍起になるわけです。

でも、先立っているのは人生の方ですのでね。
コントロールをしたこともないんですけどね〜。

全ては既に許されてます。
そして、
全てをコントロールする行為者もいてません。

そして、
全てはすでに完璧です。

じゃあ、それに気づくにはどうすりゃいいのん?
っていう話なんですけどね。

完璧さや許しを探すんじゃなくて、
そうじゃない!と握りしめてる観念の方を見てみたら良いんですよねー。

許そう!としてみたら、ワラワラと許せん!という思いが湧き出てくるかもしれません。
完璧だ!と思ったとしたら、そうじゃない理由がワラワラと出てくるかもしれません。
そして、
行為者はいないから手放し、お任せしてみようとしてみると、いろんな怖さが出てくるかもしれません。

できるのは、そういうのを見るだけなんですよね。
出てきた理由探しをしてみたくなるかもしれませんけど、それもまたキリがありませんので、ほどほどにしておいてねー。
たんに見てみるんです。

見てみると、その全てが、後付けされたイメージの中にあることが明らかになってきます。

イメージは何かを分かったことにしたものの集積であって、それらのイメージの奥にはもともとあった未知が隠れています。

それがあらゆるイメージの奥にある根っこの未知であり、本来の姿なんですねん。

未知とは、「わからん」ということです。

そして、あるのは、未知のダイレクトさ。
それだけでして、それが全てだったんです。

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