Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全ては変幻自在に見えて同一性を持っている。

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水は水。
そりゃそうですよねー。

でも水って、川を流れていたかと思うと、海に到達し、
期待となって雲になったかと思いきや、氷になったりもするわけで、
これらの変化にいちいち意味や名前をつけてみると変幻自在でとても多種多様のようにも見えますね。

でも、水は水なわけで、それ以上でもそれ以下でもないんです。

はっはっは!とうとう私は次元や波動が上昇して雲になったぞ!
では、次は私が、下にいる衆生である水たちを救って差し上げましょう。
大丈夫なんですよ。全ての水は私のように上昇できるのですから。
私の伝授をお受けになったらね。

なーんてのも物語そのものですのでねー。

雲になったからといって偉いわけでも何かが高いわけでもありませんし、
氷だったら何かを閉ざしているのか?というわけでもなく、
それらも全部つけられたレッテルからくる物語なんです。

で、水は水やというわけです。

 

世の中の全てのものはこの水のように変化をしながら循環しています。
名前をつけてレッテルを貼るから変化をしているように見えているだけで、
実際は全部があるだけです。
変化しているというのもどこかに固定された視点からみたイメージでしかなく、
変化というのもまた観念のレッテルなんです。

全部があるだけ。それが起こってるだけ。それでいて起こってすらいないんですよねん。

べつになにかしらの物語にはまっているからといって間違ってる!ってわけでもなく、物語が偽物で真実こそが真実ってわけでもなく、その物語が起こってるなら、それが起こってるだけっちゅうことなんです。

正しいとか間違いなんて区別すらいらんのですよね。

正しいも間違いもないんです。
ゆーたらそのどっちもが真理やということですね。

間違いや正しいという分離があるという錯覚が見抜かれますと、単純に自由の中で不自由さを遊んでただけなんやーんって知ることができるんですよねん。

で、誰かが知るわけでもないんです。

全てにはその行為者がいるというのもまた、錯覚なんですよね。

なので、単に知るっていうだけです。そこに行為者となる誰かもおらんのですよねん。

全てはどのようにも捉える事もでき、同時に実際に捉えられることは一切なく徹底して掴む事もとっておく事もできず、徹底的に自由であり、徹底的に分離がないんです。

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