Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分を許してあげても良いかな?

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こういった「目覚め」の話も、取っておかなくて良いんですね。
ま、そもそも取っておくことなんてできないんですけど。

どっかで、取っておかなきゃならないという観念がございますと、
こういうふうに書かれてる事を自分が否応もなく納得できる日が来るはず。
そうじゃなきゃまだどこかでわかってないんだ。

なんて思っちゃったりするわけです。

 

私はいない!
全ては至福だ!
みたいなことを自分に納得させなきゃわかったとは言えない。
目覚めたとは言えない。
みたいな思いですね。

もしそう思うのであれば、
それって、そういう思考が単に起こってるだけなんですけど、
その思考の声を真に受けてるので、「自分はまだ目覚めていない」というストーリーを見とるに過ぎないんですよねん。

逆に、
おれはとうとう悟ったぞ!全てがわかったぞー!
って思ったのなら、それもまた、
「自分が悟った!」というストーリーを見とるに過ぎないんです。

そういった思いからくるストーリーちゃんを、
お!今日もはりきっとるねー!ってなぐらいの温度で
ささーっと受け流す感じになってきますと、
ストーリーはストーリーとして、
雨は雨として、
風は風として単に起こりますし、
それにレッテルを貼らなきゃ、それは起こってるとすら言えなくなり、
言葉で表現する必要さを失うんですね。

別に言葉にしても良いけど、その言葉は単なる音ですので。

言葉からの解放はストーリーからの解放なんですが、
囚われていた誰かも、解放される誰かもいてないんですねん。

なら、最初っからそれでええんやんか!ってことになりまして、
あらま。
完璧な中で不完全を遊んでたんですね!
ってなことになるわけです。

どんな時でも、いま、ここには、
完全な平穏がデーンと鎮座しております。

不完全さというリアリティもまた、完全な平穏さとしての1つの表現なんですね。

何かを取っておいたり、何かを吸収するようなことも無いんですよねー。
それもまた、起こってることにレッテルを貼ってるだけですので。

それでいて、今までと変わった何者かになるわけでも無く、
何者かにならなくても良いことが許されるだけです。

つまり、今となーんにも変わらないんです。
なーんにも変わらないことを許し受け入れられるだけなんですよねん。

ただ、今のやなことを認めなきゃいけないのか?っていう感じじゃ無く、
やな事はやな事としてちゃんと処理して良いわけですね。

キーってなってもいいし、わー!って泣いても良いんです。
そんな今を許してあげるんですよねん。

許してあげてみよっかなーってやってみますと、
もともと許されてるねんで!っていう真実がちょこっと顔を出してくれるかもしれません。

そうなると、許すも許されるも無いやん!
ってな明らかさも顔を出してくれるんですよねー。

じゃあもう、何かを取っておかなくても良くなります。
持ってない自分を許せると、必要なものが必要な時にちゃんと手に入ってたことも明らかになりますんで、心配ご無用なんです。

手に入らんのならそれはそれでええやんって感じですし、
そんな中でアレコレ作戦を立てる!みたいな思考が出てきてもそれはそれで、大歓迎なわけです。

どんな自分も、否定する前に、
ちょっと許してあげてみよっかなーってやってみたら良いかもしれませんねー。

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